ほねつぎ     (その七)




夕暮れ、京楽の薬局も忙しかった。

この所の寒暖の差で体調を崩した人が多い様子で、 処方箋を持って多くの人が訪れた。 夕方を過ぎると学校を終えた子どもでまた混雑した。
最後の患者を終えて、京楽は店のシャッターを閉め、 一度部屋に帰った。それから浮竹の仕事が終わる八時過ぎ、 彼を迎えにほねつぎに向かった。

時間を見てのんびり歩いた。
この時間の商店街はほとんど店が閉まり、 所どころの電灯と、ガラス窓を通したほねつぎ医院から 洩れる蛍光灯の明かりだけが闇を照らしていた。
中では受付の女性を帰した浮竹が一人で、 ベッドを整えシーツと枕カバーを換え、 カーテンは全部開けて、床の掃除をして、 それから机に向かい今日のカルテの整理と週明けの予約の確認をしているだろう。

『各種保険取り扱います』という孫子、浮竹十四郎の書いた下手な字が目に入る。

京楽はドアの前で少し立ち止まった。


まだ学生の頃のことだった。
もっとも、 学生といっても薬学部の頃には自分はもういい大人だった。 薬学が面白かったというのは本当で、勉強もしたが、 いい大人な割りに学生気分も持ち合わせて遊びもした。

あれは浮竹の祖父の葬儀が終わり、喪が明けてまもなくだった。
それまで浮竹は祖父と二人でほねつぎ医院をやっていて、 浮竹には良い修行であり孝行でもあったが、 祖父は医院にほねつぎ医は二人もいらん、と常々言っていたので 独立させたかったのかも知れない。
そうこうしているうちに丈夫で有名だった祖父が逝った。
いつものように仕事をして、家に帰って夕食を摂ったあと、 布団の中でぽっくり逝った。
白寿であった。

葬儀後浮竹は一人でほねつぎを開けた。
患者の数も減らさなかった。 それまで二人でやっていたのと同じように、 それを一人でこなしていた。元来丈夫でなかった浮竹は過労がたたってすぐに倒れた。

ちょうどこんな夜、ほねつぎ医院にだけ明るく電気が灯っていて、 京楽は飲んで遊んだ帰り道に何気なく中を覗いたのだ。
初めは何だかよく分からなかった。
それから自分が見ているものを理解すると、突然すっと血の気が引いて酔いが醒めた。

浮竹は施術着のまま机に伏していて、 広げたカルテらしき紙が真っ赤に染まっている。 そのうちの何枚かは床に落ちて散らばっていた。
京楽はドアを叩く。
自動ドアはすでにスイッチが切られていて、 その重いドアを両手で開けた。中に滑り込むと浮竹に駆け寄る。 動揺して身体を揺すってしまいそうになるのを堪えて、背に手を当て名を呼びかけた。

返答はない。
真っ青な顔。

慎重に顎を横に向けると唇から施術着の胸まで、血で真っ赤に染まっていた。
京楽は自分の鼓動が大きく耳元で打ち鳴らされるのを聞いた。
なお呼びかける。
弱いが呼吸はしている。咽喉がひゅうっといって浮竹が力無く咳をした。
「浮竹、分かるか」
「きょ、ゴホ……」
新しい血液が唇から少量泡立って出る。
「しゃべるな。僕の声が聞こえるなら頷いて。それが辛ければ指で机を叩いて」
浮竹がとんと、一つ叩く。
「僕だ。京楽だ」
浮竹の赤く染まった指先が極度に貧血しているために震えている。
「大丈夫。大丈夫だよ。大丈夫……」
と京楽は繰り返した。自分に言っていた。

その頃往診用の軽自動車が裏に停められているのを知っていた。 すぐにキーを探す。そこではたと京楽は我に返った。 首を振って、目の前の受話器を手に取る。

「あの時、何故か自分で運ぼうとしたんだ。 救急車を呼ぶべきなのに。そして飲酒していた自分を無意味に責めたんだ」


そして京楽はその時から、浮竹の側にいて片時も離れないと心に決めた。



闇に柔らかに漏れ出ている光の前に立った。
スイッチの切られていない自動ドアが開く。

「浮竹」
「ん。もう少し待て」
浮竹が顔を上げずに言う。
浮竹の、スタンドに照らさた陰影のある横顔を見つめた。

京楽は適当にあった椅子に座って、 浮竹が終わるまで目を瞑って待った。
紙にペンを走らせる音だけがする。
浮竹は万年筆を使のだが、自分の仕事以外に関してはよほど不器用と 見えてよくインクの染みを作っている。
もしかしたら万年筆は祖父の形見なのかも知れない。


京楽は音もなく立ち上がると浮竹に近寄り、座っている浮竹の後頭部を押さえて口付けた。
突然のことにたじろいで浮竹が席を立つ。
座っていたキャスター付きの椅子が、カラカラカラと遠のいて行った。
立ち上がった浮竹の背を押さえ、もう一度強く口付けた後、 京楽は首元までボタンの閉まった浅緑(あさみどり)色の施術着に手を伸ばした。
首が細いので指は楽にすべり込む。浮竹が何か言おうとして白い咽喉が動いた。
が、何も言わない。

唇を離して首元のボタンを摘まんだ。
ボタンはボタンホールをゆっくりとくぐって抜けた。
そのままふたつ、みっつとボタンを外した。
浮竹がうろたえて身を引くと立ったままで縺れながら京楽は 浮竹を壁まで追い込み、浮竹の背が壁につくと、浮竹は逃げ場を失った。
浮竹には自分より若干高い京楽の背がさらに大きく見えている。 蛍光灯が背で隠れてしまって暗い。もう一方の腕は自分の顔の横を伸びて壁についている。
京楽が更に強引に深く口付けた。
どちらのともつかぬ唾液を引いて離れると、それから開いた襟元に顔を埋めた。
暫くそうしていてそれから、

「体が熱い。熱が高いね。終わったらおいで」
と言うと浮竹から離れ、京楽は行ってしまった。


京楽が帰ると、浮竹は膝が萎えて壁に背を預けたまま ずるずるとしゃがみこんだ。
長い髪が壁に縺れあがってしまう。浮竹の動悸は暫く止まず、 ぼうっと京楽の出て行った方を眺めていた。

机に放った万年筆のインクが紙に染み出ていた。

浮竹は目を伏せて、薄く口を開ける。 まだ少し震える指で京楽のなぞっていった自分の唇を、そっとなぞった。 自分の服に手を伸ばしかけて、やめる。その手をぎゅっと握った。

「……迎えに来たんじゃ、なかったのか?」


やっと辛うじて抵抗の言葉を呟いたが、ドアを出て行った京楽には届かない。













0715.2011






戻る