ほねつぎ (その五) 藍色ののれんをくぐって客が入ってくるとカウンターの中から、 「いらっしゃいいいっ」 という威勢のいい声が響く。 それに少し微笑んで、浮竹は自分の猪口に入った蕎麦を啜った。 冷えた水の入ったコップの氷の音や、冷たい蕎麦の咽喉越しが、 汗ばむ今日の陽気に心地よかった。 カウンターの中にいる店主の作業が落ち着くのを待って、浮竹は話しかけた。 「この前、『割烹 都』に行って」 「ああ、はい」 長い沈黙が続く。 「お弁当をもらったよ」 「なんすかそれ」 店主が拍子抜けした態で言う。 「都は相変わらず美人だな」 「それはもう」 「そのうち一緒になるのか。海燕」 「はい、そのつもりですけど。どうしました?」 「何が」 「普段そんなこと聞かないじゃないすか」 「そうかな」 「体調でも悪いんすか」 「何で」 「もらった弁当が美味かったとか、うちの蕎麦が美味いとか言ってますよ。 普段なら」 「それじゃあまるで俺が、食べ物の話ししかしないみたいじゃないか」 「基本、そっすよ」 と言って笑った。 「ま、ここんとこ暑くて夏みたいすけど、 また明日から急に気温が下がるらしいから、体調気をつけて下さいよ」 「みんな、なんなんだ?」 浮竹は笑った。 「ははん。あの薬局の人はどうか知らないっすけど、俺はかわいい後輩ですよ?」 「柔道部だったのはものすごく昔の話だろう」 「体育会系っつうのはそういうもんなんです。 先輩後輩は一生です」 「じゃあここの飯代負けてくれ」 「せこいっすねー。駄目です。それとこれとは別、つか先輩は普通 奢る方じゃないんですか」 「お弁当だが」 「はい?」 わざと無視して話に戻る浮竹に噴出しながら海燕が頷く。 「美味かったよ」 「よかったっすね」 若竹に囲まれた割烹料理亭の渡り廊下で、遠くに よく知る男を見た。 学生の頃から女性と歩いているのは頻繁に見てきたから 特別に驚きはしなかった。 だが、その日は向かいに長い黒髪の美しい女性が、着物姿で座っていた。 彼も正装をしていた。 見合いであった。 「浮竹先生、どうかしましたか」 「ああいや、どうもしないよ。じゃあ、お大事にね。 子どもの肘っていうのは抜けやすいから、遊んでいるつもりでも、 急にひっぱったりすると危ないよ」 「気をつけます」 「成長したら丈夫になるから。あまり心配しないで」 「ありがとうございました。あ、これ持って行って下さい。 ちょっとしたことなのに、親父さんがわあわあ騒いじゃって、先生お呼びだてして 申し訳ないです。お昼休みだったでしょう。まだじゃないですか?」 と言って重箱の風呂敷包みを渡された。 「ああ、いつもいいのに。すまない。助かる。どうもありがとう」 と言ってにっこり笑う。浮竹はたいていの場合は断らない。 「親父さんには店の名に付けちゃったくらいの 可愛いがってるお嬢さんおいでなのに、 『あれは駄目だ嫁ぎ先が決まってらあ』ってんで、 今から跡継ぎにさせる気ですぜえ、気の早い」 「はは、そうか」 と相槌を打つ。それから、 「あそこの間(ま)の…」 と言おうとして、やめた。代わりに、 「お孫さんが可愛いのはどこも一緒だよ」 と言って、重箱弁当を抱えて帰って来た。 「先輩。ぼんやりしてどうかしました?」 「うん?」 「もうすぐ三時っすよ?」 「あ、ああそうか」 浮竹は出して貰った蕎麦湯をぐっと飲んで少し冷えた体が温まると、 がたがたと席を立った。 昼時分の蕎麦屋は混むので、浮竹は接骨院の昼休みが長いことを利用して、 ここに来る時には少しずらして遅く来ることにしている。 また院の受付を閉めるのは十一時半だが、駆け込みで受付する患者も日によっては多く、 閉めてから受付済みの患者を全て診終わるまでは休憩にならない。 患者が多い日は昼休みがずれ込むので、この蕎麦屋はそんな時にちょうどいいのだ。 「またどうぞお!」 背に心地よく張る声が響いた。 ここに来るといつも、少し背筋がしゃんとする。 続 蕎麦屋海燕。 0715.2011 |