カデンツァ (前編) −トイトイトイ番外編− *前編終わりのほうにぬるいせい描写があります。苦手な方はご注意ください。期待度はゼロ… 完全なる静寂 鎮(しず)みわたる湖面 そこへ一滴の雫(しずく)が落とされると、 瞬く間にそれは幾重の円を描いて 放射状に広がって行き、とどまる事を知らない泉 自分は永遠にさざ波立つ泉の輪の中心にいる その波紋の行き着く先は見えない 止め処無く(とめどなく)湧き上がる波紋は外へ外へと向かって、 皆それを追いかけている その声に包まれると、今に時間があることを忘れてしまう。 自分が自分であることを忘れてしまう。 声はいつの間にか静まり また一滴の雫を粛然(しゅくぜん)として残し 湖面は一縷(いちる)の乱れも無い 永遠なる最後の一滴 遅れて大歓声と拍手の渦 詩人でもあるまい… 京楽は少し気恥ずかしく思う。 しかし浮竹の歌は人を詩人にする。 たとえ言葉は綺麗に紡げなくとも、 みな心に詩の魂が宿る。 言葉に変換出来る者は、その世界を分かつ記号である言葉を 紡いでその胸の内を残そうとし、出来ないものは出来ないままその形を 胸にしまっている。 言葉に出来ない者の方が幸運かも知れない。 なぜなら言葉に出来る者はあるいはその出来に酔うかも知れない。 自分の紡いだ言葉によって本来の本質を少しだけ飾り立てて記憶してしまうかも知れない。 ならば何も言わず胸にしまって置きたい。 目を閉じると清らかな水源がそこにある。 「館長、お電話です」 京楽の瞑想を涼やかな女性の声がさえぎった。 「はあい」 小さな音楽ホールは今日も町の音楽行事でにぎわっている。 どんなにささやかな、例えば本日の市立楽団の定期演奏会。 出演者は皆その日のために仕事と生活時間の都合をつけて 練習をし準備をしそして、当日胸を高鳴らせてやってくる。 京楽は小さいながらも、音の響きや照明器具の配置、楽屋から舞台までの神聖な通り道、 すべて音楽を愛して音楽コンサートのために計算して設計された 自分のホールを整えて、迎える。 そんな京楽の仕事ぶりを尊敬してやまない伊勢七緒女史に、しかし電話を切るや否や 叱責(しっせき)された。 「館長、電話を私用に使わないで下さいと何度も言っているはずです!」 「はいはい、ごめんよ」 肩をすくめて見せ、続けて説明する。 「だけど今回は私用ではないさ。海燕君の出演が決まったって」 「あら、まあ。あの方の…それはおめでとうございます」 オペラ歌手の浮竹十四郎の弟子として付き人を務めていた志波海燕が、 浮竹の公演でここへ来て間もなく後に独り立ちした。 「それでそのお誘い」 「浮竹さんとですか」 「はい」 「私用じゃないですか」 「そう。デート」 そう言って笑って出てきた京楽は空港へ浮竹を迎えに来ていた。 年の瀬の季節も手伝って空港はたくさんの人と活気に溢れ、人波に流されて 待ち人はうろうろしている。やっとお互いを見つけて抱擁を交わす。 京楽は、背が高く淡い色の上質なコートを品良く着こなしている浮竹をすぐに見つけた。 クリスマスは過ぎたが遠く離れていたそれらしくキスで迎えてやろうと思っていた。 浮竹はしかしこちらに気づいて手を挙げたきり、なかなか自分に近づいてこない。 顔一つ分高い背が消えている。 待ちきれずに人を割って行くと、流れを堰き止めて分かれさせ、 浮竹がしゃがみ込んでいた。 「大丈夫?」 「…人に酔った。あとマスク…」 「マスク?」 「マスクを忘れた」 「機内は乾燥しているから必ずマスクをするようにと海燕にいつも言われていた…」 独りでぶつぶつ言っているのをなだめながら、 京楽は混雑から離れた場所に浮竹を座らせて落ち着かせた。 「まだ気持ち悪い?」 「う…ん」 「やっぱり救護室に行こうか」 「いや…早くここを出たい…」 「じゃあ、僕車で来ているからそこまで頑張って」 京楽は荷物を引き受け、よろめいて今にも人にぶつかって転びそうな浮竹を心配しながら 駐車場までやっと出た。 車に荷物と浮竹を積み込むとようやくほっとして、エンジンをかけた。 浮竹が少し風を浴びたいというので「寒いよ」と注意しながら窓を少しだけ開けた。 天気が良いので車の中はほの暖かかった。 「海燕君がいなくて苦労しているんじゃない」 「そうでもない」 京楽の車のシートにもたれて答えた浮竹は続けて、 「くもない」 などと言う。 「どっち」 「サングラスを忘れた」 「眩しい?きみは目の色素が薄いから」 「ああ…天気が良すぎると偏頭痛になる…」 「頭痛いの?」 「う…ん」 結局コンサート当日まで二日あった休暇を、浮竹はベッドの中で消化した。 京楽は使わないつもりでそれでも一応用意した自宅の客室ベッドを少し恨めしく思った。 当日の朝、体調を回復させてやっと起きた浮竹は、ピアノの音のごく小さく奏でる扉をそっと開いた。 ホールで京楽がひとりピアノを弾いている。 客席に座って目を閉じた。 彼の持つ性格のあたたかさは、少し寂しい音色にこそ良く現れるようだった。 「聴いたことの無いカデンツァだった」 曲が終わって浮竹が言った。 京楽は微笑んだ。 「来てたの。からだは?もういい?」 浮竹は頷いて、ピアノの方へ近寄る。 「今のは?」 「僕の即興でした」 浮竹は少し驚いて、 「そうか。楽譜に書き残したいが、それが本来の姿なら俺の胸にしまっておこう」 と言った。 カデンツ、あるいはカデンツァ。 楽章・楽曲の終わりの旋律的な終止法。あるいは、自由旋律。 本来作曲家が演奏者に残した即興的自由演奏部分であり、演奏者の腕の見せどころでもある。 そしてそれは今ここに演奏を聴きに集まった時間を共有する者たちだけに贈られる一度きりの演奏。 とはいっても、今はほとんどが作曲者自身が書いたカデンツァ部分の楽譜があり、また歴代の優れた譜面を演奏する。 「ああ時間だ。着替えはあるな?」 「ちょっと待って」 京楽が浮竹を引き寄せる。 「きみの歌が聴きたい」 「いいな。お前のピアノで歌いたい」 「それもいいけれど、僕だけに歌うきみの歌が聴きたい。僕だけの胸にしまう」 「そういう悪いところもあるのにな。それが演奏に出ないのが嫌みなところだ」 「この休暇を僕がどんなに楽しみにしていたか君は知らない」 京楽は浮竹の顎を自分へ引いた。 口づけを交わす。 先ほどまで物静かで寂しげな演奏の中に隠していた京楽の情熱が浮竹を包む。 浮竹は心臓が跳ね上がるのを感じる。 自分がどれだけこの男と遠くに離れていたかを思い出す。 幾度かの切ないうねりの後、浮竹は少し強くされただけでその身を震わせて熱を吐いた。 涙が頬を伝う。 京楽は少し驚き、 「その涙に免じて」 と言って、膝が立たなくなった浮竹を優しく横たえた。 長い白髪を愛おしく梳(す)く。 浮竹はあの日と変わらない潤んだ瞳で見上げて手を伸ばし、たどたどしく京楽のタイを引いた。 next |