カデンツァ (後編) −トイトイトイ番外編− 「準備は出来た?」 その声に浮竹が振り返ると正装した京楽が立っていた。 やはり似合う。上背があるし、それは背を正せば浮竹よりも若干高い。 ついさっきまで自分を抱いていた逞しい身体が滑らかに包まれていて、 それが確かに上品であり且(か)つ色気を誘った。 浮竹はまじまじと見て言った。 「似合うな」 「どうも」 いつもホールを雪駄で歩く足も今は上質な革靴を履いている。 その靴に掛かって造られるズボンの裾のしわが、 スーツの丈が完璧に合っていることを表している。仕草にもそつがない。 「お前、もしかして育ちがいいのか?」 「やめてよ」 考えてみればホテルのオーナーで音楽ホールの館長を仕事としている男だ。 賓客を迎えたり演奏家に付き添って舞台袖にいたり(自分の時もそうだった)、 またクラシックのコンサートやオペラを見に行く機会だって多いはずだ。 常(つね)の京楽がラフすぎるのでうっかりしていたが、 例えば七緒女史などは時折こうして正装で出かけて行く この後姿を好ましく思って見送ったことだろう。 「いつもそうしていればいいのに」 「窮屈はちょっとね」 「浮竹の方が似合うよ」 腰を抱き寄せて言う。 「じ、時間は」 「そろそろ出よう」 大晦日夜半、開演前の楽屋口に浮竹が顔を出すと、 他の出演者や大型楽器やスタッフの間をくぐって、海燕が出てきた。 光沢のある漆黒のタキシードが、若々しく引き締まった顔に良く似合っている。 「やあ、開演前に悪いとは思ったが様子を――」 「先生! ご無沙汰しています!体調はどうです?ちゃんと食べてます? 風邪など引いてないすか?咽喉の調子は?」 「かいえ…」 「少しでもおかしかったらすぐ医者に行ってくださいよ。 あ、飛行機ではちゃんとマスクをして来ました? サングラスも忘れずに持ってきました?冬でも意外と日差しが強いっすよ。 それからいつも移動は二日前行動ですよ。必ず一日二日寝込むんですから 日数を考えに入れて余裕を持って。 …雨が降って傘を持っていなかったら必ず買ってくださいよ。 それで持って行った傘は帰りに晴れていてもちゃんと持って帰って来るんすよ」 立て続けに質問される浮竹は一つずつに頷いたり言いよどんだりしている。 隣で京楽が笑っている。 コホンと咳払い。 「俺のことより今日はお前だ」 やっと遮って浮竹が言った。 「はい」 海燕が真率な顔で答える。 「体調は?」 「大丈夫です」 「緊張は?」 「してます」 浮竹は頷く。 「お前はここと言う時に強い。逆境にも強い」 「はい。先生に鍛えられましたから」 「うん?」 「先生のぼけっぷりはそれは見事で、土壇場で緊急は はしょっちゅうでした」 「そうかな?」 浮竹は笑っているが、海燕は集中するとはそういうことだと知った。 一つの事に全神経を集中すると他の全てがすっぽり抜け落ちてしまうのだ。 それほどに自分を追い込まなければならないことも。 ここ数日自分は信じられないポカをやった。 気づくといつも歌のことだけを考えていた。 それは厳しく、やりがいのある仕事だった。 「その緊張を舞台に込めなさい」 浮竹の言葉に、海燕は噛み締めるようにゆっくりと頷いた。 招待されたシートにつくと京楽は浮竹に、 「きみの時よりだいぶん落ち着いているね。彼は」 と言った。 「そうか?そうだったか」 「僕が変わりに出て歌えばいいって言ったんだよきみは」 と言って笑った。 「覚えてないな」 「それはそうと、彼の後任は選ばないの?」 「しばらく一人でやってみようと思うんだ」 「そう」 京楽はそれ以上何も言わなかった。 浮竹は京楽の前職を知っているし、方々から誘いがあるのも知っている。 それでも何も言って来ないのは、京楽が誰よりも音楽を愛し、その形をホールの館長として 集約させているのを知っていて、それを辞めさせたくないと考えているからだ。 もし頼まれても自分は断らないかも知れないが、それはまた先の話でもいい。 音楽は永遠であり、また人生は長い。 若々しい凛々しい輝きが響き渡る。 浮竹が天使でその音楽がこの世ならざるものならば、 海燕は人という存在の持つ力と実在の魅力、勇気、そこに確かにある優美さは師匠譲りとして、 浮竹の祈りの歌はこういう形を取って確かに受け継がれた。 海燕の歌はこの世界の肯定である。 生きている証とその讃歌である。 素晴らしい才能であった。 自分の出番の舞台が終わりいったん袖に引いた海燕は、公演のラストに コールを受けて他の出演者と並び再び出てきた。 上気した頬で拍手を全身に受ける。 拍手は鳴り止まない。 隣に浮竹がいなかった。休憩時間に一緒に抜けたあと、 自分は先に戻ったが幕が開いても浮竹は戻って来なかった。 幕が開けばそうそう立ち歩く訳には行かない。 そしてこうしたコンサートでは休憩時間に戻らなければ、次の幕までドアは開かない。 また何処かで具合を悪くしているのではないかと心配が募った。 このアンコールが終わったら探しに出ようと気を揉んでいる京楽が、 拍手に押される舞台で見たのはその浮竹だった。加えて燕尾服に着替えてさえいる。 先ほどまではなかったスクリーンが用意されて大きな数字が浮かび上がる。 カウントダウンである。 オーケストラとソロ、合唱が入り賑やかな楽曲を交代を得た指揮者が神経を尖らせて導いて時を計っている。 ただ今この時、そして一時間後、二時間後、とその秒読みは時差を抱えてウェーヴするように世界を一周する。 汗だくの指揮者は苦労の実を結び、タクトを止めると同時にきらびやかな紙吹雪が会場に舞った。 「なぜ僕なんかと客席にいたんだよ。声の準備とかはよかったの?」 海燕を労いに楽屋へ向かう道程に二人は話していた。 浮竹は笑っている。 「サプライズだ」 何故か誇らしげだ。 ミネラルウォーターを煽って飲む海燕が気づいて席を立った。 浮竹はそのままでいいと制して、握手を求めて手を差し出す。 海燕はその場で立ち止まって、そして静かに頭を下げた。 浮竹に向かって深々と身体を折って感謝の礼を見せる海燕は、なかなか頭を上げなかった。 そしてゆっくりと戻ってきた顔は精悍な、誇り高いひとりの音楽家の顔だった。 浮竹はそれを見るとゆったりと微笑み、歩み寄って握手をし、抱擁した。 京楽はそっと楽屋を出てロビーで待っていた。 「なんだ、ここにいたのか」 「いい先生だね」 「海燕は立派になった」 「嬉しいかい?」 「ああ、とても」 「寂しいことはないかい?」 「ないよ」 「本当に?」 「自分の側を誰かが去っても、それは切れない糸でつながっている。 どんな形をしても。お前との糸も、俺の中ではあの日のホールから ずっと繋がっていた。そしてこうして今、側に手繰り寄せることが出来たんだ」 喧騒を抜けて、二人は外に出た。 澄んだ夜空に星が瞬いている。 浮竹の言葉は京楽の人生の哲学にそっと甘みを加える。 新年を祝うイルミネーションの下、二人は抱き合って、新年一番目のキスをした。 end 12122010-12302010 A HAPPY NEW YEAR ! |