LOVE & PEACE  10



その夜遅くまで浮竹の部屋にいた京楽は、いつもよりも少し遅く目覚めた。
浮竹が今日も何も口にしなかったら、専門家の手を借りるしかない。そう考えていた。
まずは朝食を……昨日スタークとリリネットが持って来た林檎が、キッチンにあったはずだった。

京楽がほんの少しの期待、今日こそはという希望を込めてのそりと浮竹の部屋を覗くと、ベッドに浮竹はいなかった。布団が無造作にめくられている。
“期待”というのは自分に嘘をついていた。立ち歩いたのかと驚いたからだ。本当はまだ浮竹が今日もそのままだと自分に諦めさせていた。いや、すぐさま弱った体を心配する。部屋を出て、トイレを確かめ、次にキッチンへ向かった。

「浮竹? 起きたのかい?」

浮竹はいた。ぼんやりキッチンに立っていた。手入れのされない白髪がもつれ、もともと細い体の線が格段に細り、覇気なく、幽鬼のように立っていた。
「浮竹」
返事はなく、聞こえたかどうかも分からない。
「浮竹〜」
後ろ姿の肩がやせて骨っぽくなっていて、撫でさすってやりたくなる。
「浮竹、お腹すいたのかい?」
どうか何か言ってくれ。
京楽がそばに寄るまで浮竹は返事をせず、そんな浮竹に京楽は軽く肩に手を添えてみた。

こちらをゆっくり振り向く浮竹。
右手に光る果物ナイフ。
浮竹の尋常ならぬ表情。

一度に見て取った京楽が果物ナイフを持つ浮竹の右手首を強く掴んだ。
しかし浮竹の力を入れた手が果物ナイフを離さない。さらに力を込めて京楽は浮竹の手首を握る。力と力が拮抗して二人の手がぶるぶると震えた。
京楽は右手で浮竹の右手首を掴んだまま、左手で果物ナイフの刃先を持って外しにかかった。驚いた浮竹が揺れたせいで京楽の手がナイフの刃で切れてしまう。ぽとりぽとりと床に血が落ちる。京楽は動じず静かにナイフを自分の方へ引く。浮竹はと震えだし動揺して肩で息をする。

荒い息をしながら浮竹は顔を上げた。そして京楽を見る。
ひと呼吸。
ふた呼吸。
静まって、浮竹の瞳は京楽の目をしっかりと捉えた。捉えながら、ゆっくりと首を振る。やめろ、と言うように。あるいは違う、か。

そして、ナイフを持たない方の手で京楽の傷ついた手を掴んだ。
浮竹は迷いない瞳で京楽を見つめている。確かで、静かで、澄んでいるいつもの彼だった。

「……すまない。手伝ってくれ」
「うん」
「これを、外してくれ。これを俺の手から」
「うん、そうしよう」

二人はキッチンテーブルに浮竹の手首ごと乗せて、身を入れ替えて後ろから抱くようにした京楽が、浮竹の硬直した指の一本一本をゆっくりとはずしていった。京楽の手から流れ出る血が、力を入れすぎて白くなった浮竹の指に流れて落ちる。最後の指が離れた時、ナイフはテーブルにことん、と静かな音を立てて落ちた。

張りつめた緊張から解き放たれ、ほうっと京楽から安堵のため息が出た。浮竹は今にも倒れそうな顔色をしながら、それでも京楽の腕の中で振り向いてきて、京楽の手を握った。

「血が付くよ」
ぎゅっと力を込めて握った。
「そんなに深くは切れてないと思うよ」


浮竹は何も言わず、両の手で京楽の出血する手をまるで祈るように、強く握っていた。










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07012013


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