LOVE & PEACE 3 −楽々探偵事務所− 一人で打ち合わせに出かけた京楽を見送ると、浮竹は事務所に戻ってやかんを火にかけた。 少しの手間は一度習慣づくとそれほど面倒にならずそれで事足りる。 湯が沸く間、事務所を何とは無しに見渡した。今日は残念ながら少し曇っているが、晴天の日などはよく日の光が入る明るい間取りになっている。ここが自分のカウンセリングルームだった頃は、もう少し壁を多く区切っていて、小さな部屋がいくつかあった。それを狭いのを好まない京楽が、壁を取り払って広くした。 その頃の精神状態はとても悪く、一度ならず錯乱して、部屋にある物をほとんど壊してしまったので不都合はなかった。物の散々散らばったこの部屋を二人で少しずつ片づけながら、今のように広々とした間取りに改築し、模様替えをした。 京楽は半ば強引にここに居座ったけれども、あまりその頃のことは覚えていない。ただそんな京楽の行動は先の見えなくなった浮竹にはとても有り難かった。部屋の広さにしても、考えると自分などよりほとんど支障なく日常生活を送る京楽を見ていれば、これほど広くとる必要もなかったようにも思える。この空間に落ち着いているのはかえって自分の方かもしれない。 ここにカウンセリングルームを開いてからも、藍染の元へは定期的に通った。それは彼との約束だった。カウンセラーはまず自らの精神状態を常に良好にキープする必要がある。常にニュートラルで余裕を持つべきである。定期的にチェックし、必要に応じてケアすること。浮竹の特性を十分理解している僕が適任だと、藍染は言った。 また、君自身を高めることに僕は協力を惜しまない、と。 そこは白い壁と白いファニチュアの、全て白で統一された眩むような部屋だった。 「君はその髪のせいで人に何か言われたことはありますか」 「僕はとても綺麗だと思っていますよ」 「さて、僕の他に誰か同じことを思っている人間がいたとします。しかしそれを完全な形でその誰かと共有することは出来ません。今君の見ている僕がどんな風なのかを、君が他人と全く同じには共有できないように。いくつかの詳細な共通項目で、君の見ている僕と他の人間の見ている僕は同じ人間だと確認し合っているだけです。同じように白色に相当する波長――白色は全ての波長を対等的、均質的に含んだ光の強い反射ですが、その光が目に入り電気的な信号として脳に達するという物理的運動によって、同じく君の髪が白くて綺麗だと思っている人間が僕の他に今ここにいたとして全く同じ条件下において、それは個人の身体の生理的違いを無視して、ということになりますが、そうして全く同じ一連の物理的運動を体験しても、その人間と僕の認識、つまり、今見ている君の髪がどんなふうに白くてどんなふうに綺麗だと感じているのか、という事は決して同じではありません。またどんなふうに同じではないかという事も確認し合うことは出来ません。クオリアは全く一個人の中で起こる現象で且つ言語化不可能なものだからです。だが」 眩むような部屋の中で声だけが明確に入ってくる。 「浮竹、君はこのハードプロブレムを飛び超え得る。非常に驚異的でこの上なく魅力的です」 藍染は自分の体質にひどく興味を現していた。そしてそれはあまりよくないようだった。藍染の元へ行くと、いつもとても疲労して帰ってきた。それでその日のことをあまりよく覚えていない。 精神のバランスはニュートラルどころか日に日に不安定になって行き、浮遊する他人の思考はかつてないほど頻繁に、そしてはっきりと自分に入ってくるようになった。そしてどうしようもなくなると、そこでまた藍染が手を貸した。一度そこで記憶は途切れ、頭は、何もなかったように軽くなっている。 それでも、いつしか通うのをやめてしまった。 昔のことは、自分の中で順序や事実が正確でない。仕事上の日誌はつけていたはずだったが残っていない。京楽のように本にでも何にでもいいから書いておけばよかったのかもしれない。 京楽のことを思い出すとその広い背中が恋しいような気持ちになって、一人でいるのが急に心細くなった。蒸気がやかんの口笛を鳴らす気配がして、間近でその甲高い音を聞くのを不快に思った。動悸を覚え、それが鳴りだした時反射的に京楽を呼ぼうとした。そんな自分に戸惑った。 浮竹は手を伸ばして、慎重に火を止めた。茶葉の入った缶を戸棚から出そうとして、引っかけて薬箱を一つ落とす。分かっていたが拾わずに缶の蓋を開けてから急須を探した。手を引っかけて茶葉を撒いた。 浮竹はそこで気が萎えて茶を入れるのを止めた。そして力なくキッチンを離れた。 京楽の部屋のドアを開ける。勝手に入って、ベッドに潜った。軽く折りたたまれていた掛布団をずるずると引き上げてきて必要以上に深く被る。マットが京楽の体のぶん、ほんの少し柔らかく沈む。 いつか京楽に、ベッドを交換するかと聞かれたことがあったが、それでは意味がないとだけ言って断った。その意味を説明する事はできなかった。京楽がいつも使って寝ているベッドだから……そう思って一人で少し耳を染めた。 少し寝て、あとでキッチンを片付けよう。浮竹はまどろみ、目を閉じた。 そこで、軽々しく電話が鳴った。 next 0513-06025.2012 |