HOLD ME TIGHT   1           −楽々探偵事務所−




「未来のことも考えたくないし、 過去のことも考えたくはない…」
浮竹は泣いていた。
彼の真っ白な髪は縺(もつ)れて乱れて、 彼は絶望の淵で泣いていた。
あの時、部屋中のものが散らかったこの部屋の真ん中で。
「もう何も―」
「では今、僕のことだけを考えればいい」
そう言って抱いた。
有無を言わさずに抱いた。
後から考えれば、他にいくらでも方法があったかも知れない。 しかしその時はそこにある自分の体とすぐ側にある浮竹の体 で出来ることといったら、それくらいしか思いつかなかった。 一刻も早く浮竹をその底の知れぬ絶望から目を逸(そ)らさせたかった。 それだけだった。

肌を重ねたのはその一度きりだ。






その頃の浮竹は、まるで眠るように生きていた。
呼吸をするのさえ密やかに、自分が世界の物事と介在するのを避け、 物事が自分と介在するのをひたすらに避けていた。
人と話すことも、外出もほとんどしない。
そうして何も考えず、何も感じずに済むように、 最大限の注意を払って浮竹は自分を閉じていた。


浮竹はカウンセリングルームを閉じる決意をすると、 しばらくは平静を保って静かに仕事の閉鎖作業をしていた。
京楽の前で泣くことはもうなかった。
患者は方々へ紹介して、資料を整理し、あるいは処分した。
浮竹の質量が少しずつ軽くなっていくのが分かった。
京楽は見ていて少し怖かった。
まるで自分の人生を終わらせるような、それがすんだら何処かへ消え去ってしまうような、 そんな静けさと冷静さだった。
しかしそうして全てが終わっても、浮竹は暗く閉じたその広い部屋で生活していた。
そして京楽はほとんど押しかけるようにこの部屋に居ついた。


浮竹は例えば、電話の呼び出し音が鳴るとひどく怯えた。
いつでも何をしていても突然に鳴るその音に驚くのだし、 突然に無遠慮に外界がこちらへ切り割って入ってくるのに驚くのだった。
京楽はボリュームを最小にして、出来るだけ穏やかな音楽を選んだ。
今使っているのよりももっと寂しい曲だった。
彼の患者が入るこの部屋で浮竹は、いつも穏やかででもほんの少しだけ寂しい曲をかけていた。 京楽がなんだか寂しい音楽だねえと言うと、
「心が疲れている人には、明るい曲は逆に負担になるんだよ」
と言っていたのを覚えていたからだった。

浮竹は例えば、テレビをつけるととても疲労した。
視覚と聴覚を強制的に使用されて、情報が暴力的に入り込んできてくる のが恐ろしく、いつも自分を守るばかりで疲れきってしまうのだった。
それで京楽はテレビの電源は抜いてしまって、ラジオを時々聴いた。
特に深夜のラジオ番組はクラシックが静かに流れているだけの退屈で平穏なものもあれば、 とてもくだらない下品な話ばかりしているものもあった。
しかしそんな時のくだらなさは正しく生きることを強いない 一種救いでもあるかのように思われ、内容はより薄いほうがよく、 話はよりくだらない方が楽だった。
そのくだらなさに二人で少し笑った。


そうやってあらゆる方面を閉じてゆく浮竹のその傍らで京楽はいつも仕事をした。
時々はもう帰ってこないような気がして怖かったが外出の用事も頼んだ。
言われれば浮竹は断らなかった。そしていつも浮竹はちゃんと帰ってきた。
浮竹はもう泣かなかったし何も言わなかった。浮竹の嵐は去った。
そしてふいに京楽がそこの本を取ってと頼んだ時、 腕が上がらないのだと言って、それからそのまま座り込むように静かに倒れた。
浮竹の身体は重力に逆らい続けて動き回るだけの希望と、 理由がなくなってしまったのだ。










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07192010


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