川面 (かわも) (「淵」「瀬」の二人。続編) 音を立てて行き来する呼吸ばかりの、乾ききった唇が見るに忍びなく、水差しの吸い口を寄せてやると その脆弱な喉は直ぐにむせてしまう。 それで何度も濡れた布を唇に当てては湿らせてやる。 彼の意識は朦朧としていて荒い息だけが部屋に響く。 側についているのは自分と、手伝いの老婆と頼りなげな幼い面(おもて)の若い医師だけだった。 それでも一番彼のことを知っているのはその老婆であったし、 若年の医師は父の代からの通いで、その気弱そうな外見ながらに反して腕は確かに働いていた。 自分が一番動けない。 みな彼の状態を固唾を呑むように見守って、少しの変化も 見逃さぬように気を使っていた。 自分を働いたこともなく寝てばかりの役立たずのと言うのに関係なく、 ひたすらに彼という人間の持つ人柄がそうさせるのだと思った。 古い掛け時計が時を打ち、既に深夜を回った事を その場に知らせる。 不意に彼の気配が変わった。 「っ!」 京楽は膝を打って立った。 「おいっ!行くな。戻って来い!浮竹!!」 呼ばれた彼は僅かの反応も見せずに先程までの苦しみが嘘のように 静かに、 眠っている。 顔色だけが異常に青白い。 若い医師が不安に顔を歪ませて彼を診る。 呼気も脈も非常に弱い。 京楽が焦燥して過度に近付くと、辛うじてやはり呼吸だけが彼の咽喉を行き来していた。 が、それが非常に弱々しい。 いつも決まってそうである。 ほとんどの間を置かずに激しく咳き込み非常に苦しんで、 何時間も苦悶の表情を浮かべていたのが嘘のように、突然安らかになる。 こんな時彼は、自分の身体を置いて彷徨い出ている。 「浮竹!」 京楽が浮竹と初めて出会ったのは残暑と言うにはあまりに 酷い夏の終わりで、それからひと冬、彼と過ごした。 ここの冬は同じ県下内だとは思われないほどの雪が降り篭め、 「だから不便なのだ」と浮竹が親しく自分に笑いかけ、そして 今ようやくの冬を脱しようという季節になっていた。 その間にも幾度かこういうことはあった。 深夜遅く、さて帰宅しようかという時にタクシー乗り場に彼が呆然と立っていて、 京楽が青い顔で乗せて帰るのだ。 自分の運転する車に乗せて山道をもどかしく蛇行して走る間、 浮竹はぼうっと暗闇しかない窓の外を見ている。 「僕がいなかったらどうするのよ」 「他のタクシーに乗る。以前はそうしていた」 この辺に怪談話が多い訳は分かった。 「浮竹さあ、なんでタクシーなの。何かもっと早い方法はないの」 「知らないが、帰り道が分からないんだ。他に帰り方を知らない」 「瞬間移動みたいの出来ないの?こう、強く念じるとか」 「さあ。前に試しに歩いてみたら道に迷って…富士樹海の様なところに出た」 「なし!今のなし!必ず車を拾って下さいお願いだから」 そうこうして無事辿り着いてぎりぎりに間に合うということが続いて肝が冷える。 お婆の寿命も縮む。 そんな体(てい)でつれて家に戻り、身体に戻ると彼はたいてい苦しそうにしている。 京楽は少し気の毒になる。 しかし何か彼を繋ぎ止めるものはないものなのか。 「君には執着心が必要だ」 「そんなことをしたら安らかに逝けない」 「逝けなくていい!」 京楽の強い声に驚く。 「ごめん」 「…いいや」 彼に怒鳴る人はいない。 そんな生活である。 「何にも心を残さずにいられるようにだけ生きてきた」 「…僕にも?僕にも何もないの」 「…」 「心を残して散々に狼狽えてせいぜい格好悪く足掻いてよ」 「それが生きてるってことでしょ」 浮竹は少しだけ切ないような顔をした。 「僕のことを思ってよ。また君が体を離れてしまった時には、僕のことを思ってみて」 「…お前はちょっとした、遊びのつもりだったんじゃないのか」 「違うよ」 京楽は浮竹を見つめる。 「本気だよ」 そう言って口付ける。未だに怯えて逃れようとする彼を抱き留める。 少し深くすると彼のくぐもった声が喉から漏れた。 余韻を残してゆっくり離れると、強くされていた反動で揺れて 彼の唇がほんの僅かに自分を追いかけてくる。 京楽は微笑む。 「キスは好き?」 この恋の始まりは、確かに奇妙であったかも知れない。 京楽は自分の思いが深ければ深い分だけ、軽薄に話してしまう所がある。 それは真実は決して声高に語らないという彼の癖だった。 しかしこうして彼のいつまでも慣れないのや、白い髪の長いのや、 その間から見える白いうなじやうなじに浮き出る頚椎の 一つ一つにキスを今すぐ落としたいくらい彼の何もかもに惹かれている。 「…好きだ」 それだけ言うのに十分かかった。浮竹が、言って直ぐに俯く。 何の話か忘れる所だった。幸い京楽の思考が話題から離れて一巡りしてキスに戻った所だった。 「あっ。そう!そうかそうか。じゃあさ…」 浮竹、念じろよ。強く。 そのまま口付けた。 若い医師は頬を若干赤らめたが口を引き結び脈を診ている。 お婆は心配して震える自分の手を擦る。 時計の音だけが部屋に大きく響く。 帰って来い、十四郎。 唇が震えて彼が噎(む)せた。 続いてぜえぜえと大きく胸を波立たせ、喉に引っかかるように咳き込む。 やがて浮竹はその目を開けた。 苦しい身体に戻った浮竹は痛々しかったが京楽は微笑んで、 「まるで御伽噺のお姫様だね」 と言った。 浮竹はそれに答えたのか目を薄めて、 それから混濁する意識から徐々に覚めてそばに就く医者とお婆を見た。 「…ありがとう。花太郎」 花太郎と呼ばれた医師は見かけ通りに涙腺が弱いのでやっと彼本来の 性格を現して涙を零(こぼ)した。 お婆は何度も何度も首を傾け頷いていた。 長く寝付いていると、一人で立ち歩けるようになるまで少し掛かる。 それでも浮竹はふらりと庭などに出てしまうので、出勤の遅い京楽が付き添って庭に出た。 臘梅が咲いていた。 顔を近づけると控えめに香った。 「春の匂いだ」 浮竹が言う。 「前から思っていたんだが…お前がいるということはすごいな」 「どうしたの」 「ひとりでは天気がどうでも花が咲いても何でもない。 しかしお前が来てから、雪が降れば道を心配するし、 花が咲けば知らせたくなる。美味いものを食べればお前にも食べさせてやりたいと思う」 自分の庭をのんびり歩いて浮竹が言う。 「ひとりでは世界は何も無いのと同じだ」 京楽は浮竹を自分の胸に抱き寄せた。 「望んで心を残さないように生きていた訳ではない。 そうしないと、生きられなかったんだ。 自分には叶わないものばかりだと、そう思ったら心が焼ける」 「浮竹」 だから、何も要らないふりをしていた。 「本当はどうしようもなく、寂しかった…」 「浮竹…」 京楽は、浮竹の匂いを胸いっぱいに吸い込むようにして抱きしめた。 それから二人で、長いことお互いをただ抱き合って庭に立っていた。 「おい!」 人通りの多い駅前の乗り場で、京楽が声を上げた。 浮竹はほんのり笑いかけて、軽く両手を挙げて京楽を制した。 「浮竹?きみ…」 浮竹が頷く。 「自分の身体で、ここまで来たんだ。家から一番近くの駅まで歩いて、 この駅まで一人で電車に乗った」 と子どものようなことを言った。京楽は少しだけ涙が滲んだ。 浮竹は、 「時刻表というのは楽しいな」 などと言っている。 浮竹は長く、光も届かない深い水底を彷徨っていたようなものだった。 いつでも死の淵を歩いている。 しかし今、水の中から覗く浮竹の目前には、空の光に反射するように明るく光る水面が見える。 京楽はにっと笑い、 「お客さん、どこまで?」 と聞いた。 「少し遠いんだが、いいか」 「いいですよ」 「どこまで行こうか」 「どこまでも」 了 2011.0216-0306 |