瀬 (せ) (「淵」の二人。続編です) 窓際に立って木立を眺める。奥に靄(もや)がかって湖が見えた。 胸に当てていた手を下ろしてため息をつく。 間を取らずに木立や湖の朝の鳥を見ながら、また胸に手をやる。 ぐっと強く当て、拍動を押さえる。 しかし、止まない。 「十四郎さま、お加減がお悪いですか?お医者を呼びますか?」 手伝いのお婆が心配そうに尋ねた。 「いや、なんでもない」 「でも、さっきからそう何度も、お胸がまたお苦しいんじゃありませんか?」 「いや…」 「お顔の色も、少し、計りましょう」 「…赤いか」 「はい、お赤いですよ」 「なんでもないよ」 と言って、さらに染めてその場を逃れた。 幼い頃から世話になっている婆さまである。 幼い頃はまだ若かった。 自分と付き合ってこんな所にいるのも気の毒な話だ。 そう思ったら俄(にわ)かに憂鬱になった。 今日は朝からそんな有り様であった。 「やっぱりご気分がお悪いですか?今からでもお医者をお呼びしましょうか?」 心配持ちの婆さまが帰り際にも問う。 「ああ、ああ、なんでもない。大丈夫だからもうお帰り」 「そうですか?そうですか?何かありましたらすぐお呼びになって下さいよ」 「…」 言おうか言うまいか、限限(ぎりぎり)まで迷っていた事を口にした。 「こ、今夜は来客があるから、明日の朝食は、二人分、用意してくれないか」 お婆は目を丸くした。 「あ、いや、急にすまない、無理ならいいんだ」 「あっ。はい、はいはいはい、分かりました、分かりましたよ。無理なんかじゃございません」 と言って出て行きかけたが、その戸を閉めるのを途中でやめて振り返り 「十分承知いたしましたよ。ご心配には及びませんよ」 とそう言って、急ににこにことして戻って自分の手を取り、 握ってぶんぶんと振って約束した。 なお足りずにこぶしの上に手を載せるとぽんと叩き、それからぎゅっと握ってやっと帰った。 暫くあっけに取られた。 我に返ると茶道具などを確かめに勝手に入り、 湯飲みを一つ落として割った。 今夜、あの男が来る。 深夜までの仕事を終えてやって来るあの男を迎えるのに、普段なら当に寝ている時間まで起きて 待つ身をどうしたら良いか分からず、 部屋にただ正座していると、古い呼び出しの音がビーと鳴った。 飛び上がった。 「こんな音が鳴るのか…」 玄関口へと向かう。 「びっくりした…」 普段来客などないこの家の呼び出し音が鳴るのは稀なのだ。 「何のこと?」 大柄な男が立っていて笑って言った。 「本人かな?」 「本人だ」 「本当?」 「そうそう危篤になってはいられない」 「そうだね」 「あがれ」 「はい、お邪魔します」 緊張して物言いが尊大になった。 家の中は古いが広々と間を取って、どことなく優雅な造りになっていた。 「今日はどうしていたの」 「…湖を眺めていた」 「僕のこと考えてた?」 「…」 「まあ、時々」 男は笑った。 「この家はきみの家?」 尋ねられたので頷いて、身内話を少しした。 「俺の家は…とても遠いのだが宮家の血筋が入っていて、 俺は長男だったがこんな身なので、家を継がない代わりに、 この家と生涯を暮らすに困らないほどの金を貰って家を出たんだ」 「そう…。浮世離れしているのは身体のせいだけじゃないんだね。 その筋の貴人であったのですか」 「…とても遠いが」 「しかしまた寂しいところに建てたものだ」 「ここは、先代か先々代がある時世をすねて建てた別荘だ。しかし 不便すぎるのですぐ使われなくなった」 「…笑っていいの?」 「…別に。自分には過ぎた幸いだ」 「コホン。他に兄弟が?」 「下に七人いるから、上手い者がやるだろう」 「歯を食いしばらない」 「?」 「ゆるく開けて」 「!」 「怖がらないでおいで」 「…気持ち悪い」 「ええ?」 「…」 「傷ついた…」 「…すまない」 「冗談だよ」 「…翻弄される」 「ま、ま、待て。待て」 「何しに来たと思うの」 「…」 「怖かったら目をつぶっていなさい…」 事後にも頬を染めて、荒い息をついている彼が色っぽいと思って眺めていた。 長く余韻を残しているようで悦に入る。しかし、 「はあ、はあ、はあ、はあ…」 「…」 「…ちょっと」 「はあ、はあ、はあ、はあ…」 「大丈夫!?」 「…ああ、なんとか…しかし、ちょっとまだ待って欲しい」 「うん…ごめんよ」 「体力が、無いんだ…」 「そうだね、うっかりしていた。すまない」 「いや、自分でも…こんなふうになるとは…」 「知らなかった?」 「体力が、いるんだな…」 「…」 「笑うな」 「笑ってないよ」 「笑おうとした」 「…。ごめんよ、でも、あんまりなんて言うか、きみは」 「本当に純真を守ってき―」 「言うな」 「もうほとんど言ってしまったよ」 「…」 ここは、湖のゆったりとした、深い水の音が時折聞こえる。 そう言おうとした時。 「別に守ってきたわけではないんだ!」 強い口調だった。 「別に、守ってきたわけでは…」 「浮竹」 「ただ、必死で、」 「ただ…」 泣いていた。 俯いて、布団の布を固いこぶしで掴んでいたので、 はずしてやり、自分のところに抱き寄せた。 「ごめんよ。ごめん」 「悪かった。僕が悪かった」 ただいつも一人でそうやって、 孤独に耐えることだけが、 きみの人生の仕事だった。 「何故、こんな…」 高ぶった気持ちが抑えられない。 「うう…」 「ああ、分かっている。分かっているよ」 まだ付き合いの浅い男が優しく言う。 優しく深い声で諭すように言う。 「分かっている…」 疲れた体と、高ぶった心が、遠い記憶にしかない人の温かいぬくもりで包まれて、 その夜、子どものように、眠りに落ちた。 了 0928-0930.2010 |