淵 (ふち) 深夜、道で白い髪の男を拾った。 その夏は長引いてどうやら立ち退くのを忘れていた。 クーラーの効いた車内にいても昼は差し込む日差しで肌が焼ける。 疲れを残してようやく帰るという深夜、その客はふらりと乗り場に立っていた。 「少し遠いんだが、いいか?」 「いいですよ」 「悪いな」 「商売ですから」 そう言って鏡越しに笑うと、男は何かほっとしたようだった。 「酒臭いので、少しの間窓を開けますね。先客が酔っ払いでね…」 男は黙って頷いた。 風に長い髪がなびいた。 夜の道路に光の筋が伸びている。 自分はこの風景が割合好きだ。 鏡越しに後部座席の男を見る。 「お客さん、顔色が良くないようですが、ご気分でも?」 「いや、大丈夫だ」 男は言葉少なに答えて、ぼうっと外を見ていた。 「僕、そんな顔知ってますよ」 「…どんな顔」 「そうねえ…」 「何も求めない。何も」 「…」 「もうそろそろ…いいかと思ってな」 「…」 「先は長いですから、よかったら、少し話でもしませんか」 「…」 「その髪は、自前ですか?ああ、悪く取らないでね、綺麗だと思って」 「…。幼い頃、病で」 「そう」 「一日で、こうなった」 「マリーアントワネットだ」 「はは。…俺は医者から、成人するまで生きられないと言われて… でも、なんとか成人するまでもったんだ」 「それはすごい」 「なんとかね…しかし、成人まで生きるのが目標だったから…もうやることがなくなってしまった」 「まさか。これからでしょう」 「いや、これからするべきことというのは…たぶん俺には出来ない事だ。 俺はずっと家にいて、仕事もしたことがない。成人したからといって丈夫になった訳でもなく、 今だに寝たり起きたりの生活だ…世間並みの結婚とか、家庭を持つことも…出来ないだろう」 「今だってこうして…いるのも…何度目か分からない」 「深夜のタクシーに?乗るのが楽しみ?」 「…」 「他にやってみたいことなんてないんですか?」 「思いつかない」 「例えば、そうねえ。酒は?」 「程よく酔う」 「いいじゃない」 「それだけだ」 「じゃあ煙草」 「俺は胸の病で、吸うのは死ぬのと同じと言われている」 「やめやめやめ。なし。今のなしね」 「じゃあ、女」 「…」 「ないの?」 「なにが」 「一度も?」 「だからなにが」 「お客さん、もしかして、どうて―」 「うるさいな」 「試してからでも、遅くないんじゃない?」 「…この年で」 「お客さん、いくつよ」 「…」 「切なくなってきた…」 「うるさい」 「しかし、ま、女はいいですよー」 「…この病だ。誰も触れたがらないさ」 「そいつは…」 「いいんだ。興味がない」 「そう…。じゃあ恋は?まず恋でもしてみたらどうです?」 「誰と」 「いませんか?」 「いない」 「でもお客さんもてるでしょう、二枚目だから。看護婦さんとか、人気あるんじゃない?」 「将来性がない、と」 「世知辛いなあ」 「じゃあ、そうねえ。僕と」 「誰?」 「僕」 「ええ?」 「嫌?」 「嫌と言うか。男じゃないか」 「はい」 「まあそれもいいか」 「あ、またどうでも良くなってる」 存外話がはずんだ。 そのうちに人気のない山間(やまあい)に入っていた。 カーナビがあさっての方向を示す。 こんな山道、新道でもあるまいし。 「お客さん」 無線が効かない。 電灯が随分と遠い間隔でぽつりぽつりとあるほかは、看板も標識も見えない。 「お客さん、ここ、どのあたりです?」 「さあ、どこだろう」 「ちょっと…」 道はどんどん狭くなり、山の奥の奥へと入っていく。 この手の怪談は仲間からよく聞く。 一人山の中に残されるとか、今の今話していた客が 忽然と消えたり、シートがびしょ濡れだったりだとか…。 「ねえ、お客さん、あれ?」 後ろのシートで男はぐったりとしていた。 「もしもし?」 「具合悪いですか?」 「…ああ。そうみたいだ」 「急ぎますか、それとも病院に」 「いや。いいんだ」 「道あってます?」 「そのまま行ってくれ」 「僕、無事に帰れますよね?」 「…」 「うそでしょう」 「帰りたいか」 「やめてくださいよー」 「帰れるよ。道は一本しかない。走っていればじきに着く」 「ほんとに病院行かなくていいんですか?」 「行っても意味がない」 「…」 「ねえ、ほんと、生きていれば、何かいいことありますよ」 「そうかな」 「そうですよ」 「例えば」 「そういうのは自分で考えるんですよ」 「いいんだ。もう眠いんだ」 「お客さん…やっぱりそうね。恋とか」 「誰と」 「僕と」 「…本気か?」 「はい」 「どこがいいんだ、こんな」 「毎日暑いですよねえ。本当に」 「?」 「今年は秋がないんだってよ、馬鹿にしてるよねえ」 「なに」 「もう暑いのにうんざりしていてね、今夜もね。そうしたらお客さん、 あんたが乗ってきた」 「随分美人さんだと思ってさ。すーっと信じがたいくらい癒された」 「…」 「一目惚れってあるんだねえ。僕初めてよ、この年になって」 「あんたが嫌じゃなけりゃ、本気だよ」 「…」 「僕これ、口説いているんだよ」 「…そうか」 「あら、ねえ大丈夫?顔色ひどいよ」 「なんでもない。悪いが急いでくれ」 「考えが変わった」 と男は小さく呟いた。 案内も何もなかったが、道なりにずっと一本道だった。 後ろの男はさっきからずっとぐったりとシートに埋もれていて 口を利かない。 疑い半分本気半分で化かされているかも知れない。 と思いながら山道を走った。 唐突に道幅が狭くなると思ったら、古い門らしきものに突き当たり、 奥に小さな家屋がひっそりと建っていた。 近づいて木々が開(ひら)けると、湖があった。 こんなところに。 湖などあっただろうか。 宵闇に水が薫る。 「お客さん、着きましたよ。ここでいい―」 後部座席を振り返った。 誰もいない。 急いで降りてシートを触ると、クーラーで冷えていた。 人の座っていたぬくもりがない。 「まさかあ…」 呆然としていると、傾いだ戸を引くような音がする。 着物姿の男が出てきてこちらに歩いて来た。 「…」 長く白い髪が闇にぼうと浮かんでいる。 「これ…タクシー代だ」 「あ…」 「何とか間に合った」 「今夜も危なかったが、何とか持ち直したと手伝いのばあさんに泣かれた」 「帰って来てよかった…あっ」 ぽつぽつしゃべっているままの男を強く抱き寄せた。 びくっと震える身体を抱く。 これは案外楽しいことになるかも知れない。 何も知らない白髪の色男。 「まずはキスから」 口付けると細い身体は腕の中で怯えて暴れた。 京楽は、さっき見た表札の名を呼んでみた。 「浮竹?」 そしてにっと微笑んで言った。 「あんたがこれからすべきことは、幸せになることだよ」 了 0904-0913.2010 うっきー魂半分抜けちゃったけど帰って来た。秋も始まろうというのに暑すぎる9月の怪談話。的な…。 |