ウィークデイ・ドライブ 5 −楽々探偵事務所− 助手席の浮竹の顔色が悪い。 皆疲れて気だるい帰り道で口数が少ないとはいえ、浮竹は さっきからひと言も話していなかった。 「浮竹」 呼ぶとゆっくりこちらを見た。 「気分でも悪い?酔った?」 「…いや」 「少し休もうか」 「平気だ…」 「ごめん。ちょっと車止めるよ」 「吐くのか?」 スタークの問いに京楽は口をへの字にまげて答えた。 「ちょっと風にあたらせてくるよ」 比較的広い道沿いに車を止めて、二人は 木陰に入った。 浮竹は知らずため息をつく。 近くの自販機でペットボトルのお茶を買って来た京楽が それを渡す。暑さですぐに水滴がつく。 浮竹は口を開けずに額に当てた。 「頭痛?」 「…すぐ治まる」 「薬飲んで、帰りは寝て行きなよ。大丈夫だから」 浮竹は視線を少し上げて、 「スタークが混乱している…」 と言った。 態度には微塵も見せなかったが、戻ってきてすぐ リリネットを抱き上げたし、帰りの車ではだんまりだった。 本物の母親に会って、彼なりに動揺しているのかもしれない。 「あら、そう。彼も人の子」 浮竹は目を閉じた。 往路の車内は楽しい雰囲気だったし、浮竹も始終楽しそうにしていた。 だが楽しいという感情も他人の感情という点では変わらない。 少なからず影響を受ける。 今の浮竹に電車で遠出は無理だと判断して、車にしたが、 それでも狭い車内で長時間、他人(ひと)と一緒にいるのは少し負担が大きいかと 心配はしていた。やはり疲れが出たようだ。そしてスタークの動揺。 「浮竹さ、最近少しまた鋭くなってきているよね」 浮竹はペットボトルを持つ手を強めた。 「大丈夫?」 いつも平気だと答える浮竹がためらっている。 臨床心理士としての仕事を辞める前後、浮竹は最悪の状態にあった。 それから徐々に回復し、他人の感情が常に浮竹に出入りしていた状態を脱して、 しばらく穏やかに暮らしていた。ほんのつい最近まで。 「頭痛薬の減りが早いし…それに…」 浮竹は黙っていた。肩から前に垂らしたその後れ毛が弱弱しく風になびく。しばらくの沈黙の後 浮竹は口を開いた。 「…京楽、さっきはああ言ったが、俺のことが手に負えなくなったら…」 よく聞こえなかった。 道路を走る車の音がするし、浮竹の声はとても小さい。 「なに」 「……藍染の所へ」 「俺がお前の手に負えなくなったら、藍染の所へ俺を置いて来い」 「…お茶、飲めば」 浮竹はキャップを開けようとするが手が震えていて上手く開けられない。 「無理をして…」 浮竹の力の入らない指が震えている。ペットボトルがごとん、と落ちた。 京楽は目を閉じて自分を抑える。 感情に任せて愚劣に怒鳴ってしまいそうだった。 浮竹は小さく息をする。震える両手を強く握り合わせている。 「…何言ってるの。浮竹。嫌なんでしょう、彼が。そんなになるくらいに」 京楽がペットボトルを拾う。 「浮竹は今、疲れているだけだよ。あるいはさっき僕と話したことで そんな酷い方法があることに気づいてしまったんだ。 それならさっき話したことは全部忘れよう。 きみは楽観主義者のままでいいんだ。そのままでいいんだ」 土を払って首に当ててやる。浮竹はおとなしく頭を下げた。 しばらくそうして浮竹は乱れた息を整えている。 夏の夕暮れの風が吹く。ペットボトルの水滴が髪をのけた浮竹のうなじに落ちる。 「それは、恐怖なんだ…自分が腹の底まで、いやもしかしたら自分の知らない所まで 知られているかも知れない…そう考えると」 「うん…」 「足元が崩れていくような感じがする、俺は立ってさえいられそうにない。 だが同時に…自分を投げ出せば、楽になることを知っている。 自分で自分が手に負えないのなら、全てを知られているのは、自分を捨てて全てを ゆだねてしまえば、その先にあるのは、この上ない安楽だよ…」 「浮竹…」 「俺はそれが怖い。そしてだんだん何が怖いのかよく分からなくなる」 自分をコントロールできなくなった浮竹に世界はただ恐ろしく、 安全なのは藍染のもとだけだと思わされる。しかしそれは恐怖に負けることだ。 しかし偽りの安全であっても、自分を捨てることだとしても、 親に縋り付く雛鳥のように、それは刷り込まれている。 そういう、盲目的に安寧を求める自分に負けるのが 浮竹のもう一つの恐怖だ。 京楽は浮竹の深い苦悩を今初めて見た、と思った。 表面に出てくる体調の不調や感情の表出の内側に、 このようなどちらに転んでも救われない葛藤が内包されていた。 リリネットが車の窓から手を振っている。 スタークがだるそうに肘を出して窓枠に顎を乗せいる。 浮竹は顔を上げると、口角を上げた。 「お前が俺を嫌になったらの話だ」 「…」 「そんな顔するな。悪かった、疲れて弱気になっただけだ。戻ろう」 「浮竹」 「浮竹!自分のことを全て分かっている者が、必ずしも側にいるべき人間とは 限らない」 「…うん。そうだな」 自分が側にいるべき人間だと、今ここで言えたら良かった。 あの小さな車で待っている、血の繋がりやまして書類上の繋がりや何かでもない、 しかし自分が一人では半分だと思っている二人、その半分が相手同士だと思っている二人 のように何の説明も理由もなくそう言い切れたなら良かった。 傾いた日差しに反射している小さな自分の車が、とても眩しかった。 end 0903-1008.2010 |