桜湯 しばらく病を養っているうちに、また季節が変わっていた。 風の匂いと、新緑の眩(まばゆ)い景色を、 浮竹は目を細めて雨乾堂の渡りから眺めている。 遠く演習の声がする。 若い隊員たちの笑い声。 そちらの方へ行こうと思った。 渡りを歩ききる際で、膝ががくっと萎えた。 「おっと」 「京楽」 太い腕に脇から支えられた。 「暖かだね。浮竹」 たくましい腕だ。浮竹は京楽の腕を肩口まで確かめるように触った。 「な、なに」 「床にいると、筋肉が細る…いつ来た春水」 「たった今」 京楽は気遣わしげに浮竹をそっと立たせた。 「膝が抜けた」 「うん。気をつけて」 ところが浮竹はたたんと橋を駆けていった。 「京楽ー。ハナミズキが咲いたなあ」 「花見がしたかったの?」 そこら辺りを適当に歩いて、やがて雨乾堂に戻った。 やっぱり桜はなかったな。と浮竹は言った。 遅咲きの山桜くらいは、残っているかとも思ったが。と独り言。 雨乾堂は静かだった。誰もいないのかいと聞くと、 浮竹は自分がようやく良くなったのでみな仕事に戻ったと言った。 「いつも面倒をかける」 少し低い声で言う。 「本当は隊員たちを自分でしっかり指導してやりたい」 「まあ、でもそれは」 浮竹は俯いて眉間あたりを指で押さえた。 「まだ具合が良くないかい?」 「いや。目が少し疲れただけだ」 色素の薄い浮竹の、長い間薄暗い部屋に慣れた目には、 あまりに明るい陽の光が負担になった。 「本当にいろいろと…いつも俺が寝ている間に変わってしまうな」 浮竹が薄く微笑んでいるのがいっそう寂しくて、 京楽は微笑み返そうとして口を歪めた。 「そうそう、いい物を持って来たんだ。桜見を逃した君に」 そう言って京楽は懐から包みを出した。 ピンク色のものをそっと摘んで、白い茶器に湯を注ぐ。 「桜の花の塩漬けさ」 中をのぞくと、それは透明な湯の中でゆっくりと花開いた。 「きれいだ…」 「でしょ」 「よくね、僕の家では祝いかなんかで使われていたんだけど。 退屈な中にも楽しみがある」 浮竹はふーっと吹きながら器を手のひらで包み、 ひとくち、ふたくちすすって、それからその手をゆっくり下げた。 少し押し黙る。 「おいしくなかった?」 浮竹は首をもたげたままである。 「それともやっぱり疲れたのかい?少し横になりなさい」 白い椀を手からはずしてやると、浮竹は素直にごろりと寝転んでしまった。 浮竹の白い髪が散る。 「ま、これは見た目を楽しむものだしね…」 「…京楽」 「うん?」 「お前もおいで…」 「なあに」 京楽が側に寝そべると、浮竹は京楽の花柄の着物をめくって 中にもぐった。 そのまま巻き込んで京楽の足を跳ね上げ、 力任せに大男一人を抱え込んで畳をごろんごろんと転がった。 「ちょっと。浮竹ちょっと」 壁の端まで着くと浮竹は噴き出して笑った。 「お前は優しいな」 「さっきのな」 「うん」 「まんじゅうによく乗ってるやつの味がした」 了 04292010 |