東風 (こち) 「浮竹」 振り向いた浮竹には顔色というものがなかった。 「ああ。京楽」 「身体はもういいの」 浮竹は頷くが、いいはずがない。 大方(おおかた)例の知らせに飛び起きて来たのだ。 「病み上がりで出歩いて」 「夜一が来た」 京楽は 「そう…なんだかちょっと」 顎に手をやり 「…忙しくなりそうだね」 視線を落とし自分の編み笠の陰に逃れた。 浮竹はなんだか遠くを見ている。 浅い春の風が二人の羽織を煽った。 この頃ずっと続いている喧騒が遠く聞こえる。 「顔」 「うん?」 「見てきたかい?…惣右介君の」 「あ、いや未だだ」 「そう…」 浮竹がこほっと軽く咳をしたので、京楽は 「とりあえず一度雨乾堂へ戻らない?」 「腹が減ってはなんとやら」 そう笑い、手を引いて驚いた。 とても冷たい。 「浮竹。ご飯食べてる?」 浮竹はずっと黙っていた。 熱い茶が入る。 「ま。どうぞ。君んちのだけど」 浮竹が渡された湯飲みを取り落とした。 わっと湯気が上がり着物が濡れる。 「おい!火傷する」 動こうとしない浮竹にすぐさま京楽が駆け寄る。 熱湯を浴びた着物が浮竹の肌に張り付くのを防ぐ。 浮竹はされるがままになっている。 「浮竹」 「…」 「浮竹。浮竹。浮竹…」 京楽は静かに、宥(なだ)めるように。 浮竹、何があった。 京楽は言葉をのんでただ浮竹の両の腕を着物の上から守るようにさすった。 「京楽」 「うん?」 「…朽木は少し痩せたが、笑っていた」 「会ってきたの」 「まあ…少し揉めていて、白哉とその」 「僕も一人会ったけど。旅禍の。どうもこれは…」 「ああ…」 懺罪宮の渡りで会った男… 浮竹はその面影の酷似に驚愕した。 記憶が一度に甦る。 「浮竹」 京楽は浮竹を引き寄せて頬を撫で、口付けた。 何の反応も示さないのでぎゅうと強く抱いた。 「大丈夫だ浮竹。大丈夫」 はらりと一片(ひとひら)薄紅がおちた。 気づいた浮竹が拾い上げ 「花びらか?」 と言った。柔らかな声だった。 「ああ、それ。僕のだ。七緒ちゃんにさあ、頼んでさあ」 「またやったのか」 浮竹が笑った。 「それがなんかやっつけでさあ。最後なんかこう、どばーっと」 浮竹は笑って聞いていて、そして静かに言った。 「志波家の…岩鷲と言ったか…立派になっていた」 「そう」 「浮竹」 「うん」 「何も言わないんだな」 浮竹が京楽に言う。 「うん。僕が口出しするのは僭越(せんえつ)だもの」 「それは浮竹を見くびっていることになるからね」 浮竹はきっと正しい答えを出す。 それをやれる力もある。 そして僕がどうするかなんていう責任は背負わなくていい。 僕が浮竹にしてやれることなんてそれが精一杯だ。 「病み上がりなのが心配だけど」 「ご飯食べてね」 浮竹が微笑んだ。 音もなく黒い蝶が舞い込んできた。 浮竹は立ち上がった。 「白哉のところへ行って来る」 京楽はその背中を見送った。 白い羽織を膨らませて東風風(こちかぜ)が吹く。 浮竹の髪をさらう。 「そう、悪いことばかりでもないさ」 京楽は一人呟いたつもりが、先の浮竹が振り返って自分を見、 「そうだな」 と言った。 了 03182010 |