ガジェット 2 −楽々探偵事務所− 「やあ。久しぶりだね。手紙は届いたかな?」 その声は優雅に言った。 電話越しでもその深い声の独特の響きは失われなかった。 浮竹は息を飲んだ。 「手紙を出したけれど、君の声が聞けてよかった。なかなか楽しそうな職場だね。それから」 「ただいま、浮竹」 浮竹の様子を注意深く見ていた京楽が、電話を受け取ろうとして浮竹と一緒に聞いたのはその部分だった。 それだけ言って電話は切れた。受話器を耳に当てたまま浮竹は立ち尽くしていた。 後にはツー。ツー。という音がするだけ。京楽は浮竹の手からそっと受話器をはずした。 ひどく冷たい手をしていた。 「浮竹。大丈夫?」 「…ああ」 「そう?」 「ああ。平気だ…」 そういいながら浮竹は、そろそろと自分の手をこめかみに持って行ってそっと当てるようにした。 その手が細かく震える。 「そうは見えない」 浮竹の目は京楽を見ていない。 「浮竹」 浮竹は呆然としていて蒼白で、身体をゆるくふらつかせながら背を向けた。 支えようと近づいた京楽の手を軽くさえぎって 「…ちょっとはずす」 小さな声でそう言って浮竹は自分の部屋に戻ってしまった。 宛名があれば、結婚式の招待状か何かかと思っただろう。 京楽は机にある、質の良い紙を使った真っ白な封筒を見やった。 かざすとアルファベットが透かしてあった。 カリグラフィー文字の「S」。 それからあの電話。 「うーむ」 京楽は椅子に座って後ろ手を組んだ。 ギシっと椅子が鳴った。 夜中に感じる蛍光灯の光とは何故こうも煌々と明るいのだろう。 普段は薄暗いトイレのそれでさえ。 吐き気を感じて起きた浮竹は、トイレまで行くと耐えられなくなり吐いてしまった。 夕食にはほとんど手をつけなかったので、すぐに吐くものがなくなった。しかし それからそのまま、吐いても吐いても吐き気は治まらず、 狭い天井がぐらぐら揺れて回っているのを感じながら、浮竹は涙を流して吐いた。 「浮竹」 そっと後ろから京楽が声をかけた。 またびくっと体が揺れてしまったかも知れない。 「どうしたの。具合良くないの」 「…すまない、起こした…か?」 「いいよ。苦しそうだね」 浮竹は荒い呼吸で振り返り、座り込んで壁にもたれる。 「水を持って来よう」 と言った京楽の思わず袖を掴んでしまった。 「僕、ここにいたほうが良い?」 「いや、すまん…」 浮竹は首を振ると、また強い嘔気が襲ってきて背を向けてしまう。 「もう吐くものがなくて苦しいんじゃない。ごめん、ちょっと待ってて」 「少しはましになるから」 戻った京楽はコップの水を浮竹に渡す。 「無理にでも飲んで」 浮竹は言われるままにする。また吐き気がこみ上げる。 「吐くものがあったほうがまだ楽だから」 京楽は背をさすったり、時々ぽんぽんとあやすような励ますような手振りをした。 そうして一時間ほど過ごし、落ち着いてきたのを見ると 浮竹の肩を抱えてソファの方へ運んだ。 ぐったりとソファに身を預け、まだタオルを口に当てて浮竹はぼんやりしていた。京楽が 温めたらしい何か飲み物を持ってそばに来た。 浮竹の投げ出された足を「よいしょ」 と言って脇に除けて一緒に座る。 「…京楽、あの手紙」 浮竹が億劫そうに口を開く。声が掠れた。 「中を開けたか?」 「まだだよ」 「開けてもきっと、何も書かれていない」 「どういうこと?」 「あれは俺宛の手紙だ」 「…」 「言わなくても分かるだろう、っていう意味だ」 最後の方はため息が混じった。 京楽はカップを浮竹に持たせながら 「今日起きたことは浮竹の見る悪い夢と関係があるの?」 と聞いた。 「お前は嘘をつくんだな…」 浮竹は今朝見つけた京楽の頬の傷をなぞった。 「そういう男は嫌いかい?」 京楽はその手に重ねていたずらっぽく言った。 浮竹は俯いた。 「お前のは、優しさからだと知っている。…すまない」 「これくらい平気。激しい美人と寝たみたいに見える?」 「…美人かどうかは、分からないじゃないか」 浮竹は少し笑った。 「…他に怪我はしていないか?」 「ないよ」 「…俺はどれくらい」 「ほんの数分。いつものように悪夢に泣いて、 少しお風呂に入れられる猫みたいにもがいて、 僕の胸で大人しくなったよ」 「それも本当かどうか分からないな…」 本当はもっと自分は錯乱して、その後もきっと京楽は寝なかったに違いない。 「…俺はお前の負担になっているな」 「なってないよ」 「すまない」 「なってないって」 「嘘をつかせる」 「僕はきみに謝らせたくない」 少し向かい合う。 「そして、きみに自分が僕の負担になっているなんて思って欲しくない」 「…いや、お前が…俺がお前の負担になっていることを自覚させたくなくて 俺に嘘を言っているなら、やっぱりお前にそういう負担をかけている」 「それは負担じゃないよ。僕の側には。僕に負担を掛けたくない、と言うなら それよりも僕に負担をかけている、ときみが負担に思ってしまうことが僕の負担だな」 「…や、やっぱりお前にそういう負担をかけている」 「そう思ってきみはまた負担を覚える」 「す、すまない」 「ほらそれが僕には負担だ」 「わ、悪い」 「つまりきみの負担になることが僕の負担になるから、僕は僕の負担だけで終わるほうを 選ぶんだよ」 「ややこしいな」 「ねえ」 京楽は笑った。こういう論議はいつも京楽の勝ちだ。 「言葉のパズルは俺の方が本職なのに」 「きみはまだリハビリ中だからね」 嘘をつくのはぜんぜん負担じゃない。 それほど僕は誠実じゃないし。 とにかく僕は、きみが一番楽でいられればいいんだ。しかし困ったことに 浮竹は一番楽なのが楽だとは思えない性格だ。 「…僕は君の体質が君に負荷をかけているんだと思っていたけど、 やっぱり他にも要因があるんだね?」 「俺も、今日思い出したんだ…あの電話」 「それと手紙」 浮竹が頷く。続けようとして息を吸う浮竹の唇が戦慄(わなな)いて震えた。 「おしまい」 京楽が中断する。 「それが分かったので今日のところはこれでおしまい。 浮竹はストレス過多だ。ややこしい話はこれでおしまいにしよう。今日はもう何も考えないで」 「その話はまた今度しよう」 大きな手が浮竹の肩に触れる。 浮竹自身もまだ、どう説明してよいか分からなかった。 だからその手に触れるように頭を傾けて頷いた。 浮竹が持っていたカップに口をつける。 「まずい…なんだこれ」 「なんか漢方」 「なんの?」 「よく分かんない」 「?」 「僕のおばあちゃん直伝の」 「まずいな」 「そうでしょう。でも効くよ」 「何に?」 「さあ。元気になる」 「なんだよ」 「さあ?」 真夜中の広い部屋で二人はひっそり笑いあった。 続 06042010 |