トイトイトイ         7.トイトイトイ最終話



本番と変わらぬ舞台設置で、ホールでは リハーサルが行われていた。 この小さな音楽ホールの利点は、スケジュールをゆったりと組めることだ。
舞台には浮竹とピアノが一台。 公演前日に到着したピアニストは、二人組みのユニークなユニットだった。 京楽は当日自分がステージマネージャーを務める旨(むね)を挨拶し、 大柄でやや退屈そうな顔をした男と元気の良い小さな子どもに、かわるがわるに握手した。 男は無愛想に
「コヨーテ・スタークと、リリネット・ジンジャーバックだ。よろしく頼む」
と名乗った。

共演が何度かあるらしい浮竹は、子どもの方と談笑している。 スタークは始終仏頂面だったが、時々浮竹に声をかけた。
「よう、歌姫。また倒れはしないだろうな」
「がんばるよ」


京楽は先程、ピアノの調律具合を診てみた。 調律したてのピアノに触れるのは好きだった。 ピアノは申し分なく良く調律されており、 そして今は袖で腕組みをして浮竹たちのやり取りやピアノの音色を聞いていた。
が、舞台を見たまま言ってみた。
「…涅(くろつち)君。なんでいるの?」
調律師の涅が、まだ帰らずに舞台袖に残っていた。
「なんだい失礼なことだね」
「いや、だっていつも忙しいとか私は暇じゃないとか言ってすぐ帰っちゃうじゃない」
涅は少々多分に付きあい難い人間だが、仕事の腕は一流である。 京楽はその腕をかっている。
「自分の仕事を見届けるのもまた仕事のうちだよ。 それに今日は珍しく時間もあるからまだいるよ。悪いかね」
「いいや。明日もよろしく」
京楽は両の手のひらをあげて見せて言った。
涅は舞台の浮竹を見たまま
「ああ」
と答えた。


今朝はリサからも電話があった。
「今着いたわ。そっち行くさかい袖でもなんでも手伝うたる」
電話の後、七緒の入れたコーヒーはいつもより砂糖が多くて、 そして何故かいつもより自分に優しかった。



ピアノの音が鳴り出した。
この二人はいつも連弾で、つまり一つのピアノを二人並んで弾くのだが、 それがまるで一人の人間が弾いているようであった。 それは単に息が合っているというような問題ではなく、 音が多彩で確かに手は四本あるはずだが、四本の手の、あるいは 片手に指が十ずつ有る一人の人間が弾いているような統一性なのだ。
これは面白い。
京楽は思った。昔から人間の物理的限界に阻まれた作曲家の夢を、 この二人なら叶え得(う)るだろう。 この二人のために曲を作りたい作曲家が絶えない理由が判った。

そして浮竹が歌いだす。
それは、
それは例えば喜びだった。
それは例えば尊(とうと)さだった。
そして全てが祈りだった。

浮竹の全身が声を出すために使われている。
うなされていた夜のあの浮竹はどうした。
廊下で倒れたあの弱々しい浮竹はどうした。
オペラはマイクを使わない。自分ひとりの肉声でホールの終わりまで届く、 そのための特別な発声方法で歌う。
浮竹は全身全霊で歌う。


気づくとリサが横に立っていた。
泣いていた。
その横に七緒が。
涅が身を乗り出し浮竹を凝視していた。

自分も知らずに泣いていた。



繊細で美しいアリアの後、程なく休憩が入る。

浮竹がゆらりと揺れた。
「おい」
スタークが言い、海燕がすばやく察してステージまで迎えに出た。
「ちょっとちょっと。舞台袖に人が多いんですけど」
「ああ、ああ、ごめん。ほらみんな、散って散って」
抱えられて戻ってきた浮竹はすぐに用意されたソファに倒れこみ、海燕が 吸入器をあてがっている。 病み上がりで体力がないのだ。
「本番では死んでもここまでは自分で歩いて帰って来て下さいよ。 俺は待ってますから。ここまで来れば後は何でもしますから」
「うん。分かっている」
浮竹は真摯に頷いた。





そして本番、当日。

控え室では浮竹にぴたりとついて海燕が世話をしている。
「どうだい?準備は」
京楽が呼びに行き、海燕が半ば押し出すようにして二人は出てきた。 浮竹は固い顔をしていた。
と、徐(おもむろ)に浮竹は
「京楽くん、きみ、私の変わりにあそこで歌ってはどうだろう?」
と言い出した。
しごく真面目な調子である。
開演直前の舞台袖だった。
シルバーパールに輝く白い天使たるタキシードを着た彼は、
「うん。君は背も高いし背筋を伸ばせば見栄えも良い。髭は剃れ。今すぐ剃ったらいい。 その黒く長い髪も舞台に栄える。そうだそれがいい。そうしよう!」
と続ける。
「先生」
海燕がたしなめる調子で呼ぶ。
浮竹は今、緊張の極致なのである。
京楽は本番直線に自分のバイオリンを壊そうとしたバイオリニストを見たことがある。 京楽は海外の仕事をしていた時に、 ステージ前の音楽家がどれほどのプレッシャーと闘っているかということを学んだ。 それは経験に関係は無く、名が売れれば売れるほど、 逆に絶対に良い演奏をしなければならないという重圧に耐えなければならないのだった。
京楽は間を置くと静かに微笑み、浮竹を真っ直ぐに見つめて
「大丈夫、僕の天使」
と言った。
側に付いていた海燕が目を見開いた。
浮竹はというと目を閉じ、何事かじっと考えていた後、ひとつ頷いた。
持ち直して歩き出す。

「浮竹、トイトイトイ!」

浮竹がこちらを向く。
トイトイトイ、とは音楽の世界で使われる、 グッドラックにあたる意味の言葉だ。

浮竹はそれからその美しい瞳を澄みきった翡翠色に輝かせて、 京楽を見つめてもう一度しっかりと頷くと、 ステージへ歩いて出て行った。


拍手の渦が浮竹を迎える。





「トイトイトイ!」











03052010

はあああ〜。終わりました。無謀分野連載、無事完結。
ありがとうございました!




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