トイトイトイ        4.看病



雨に濡れると必ず風邪を引く、というのは本当だったらしい。
浮竹は到着から数日、ホテルの部屋にこもって寝込んでいた。
医者が何度か出入りし、海燕がぴったりと付き添い何事にも介添えをしていた。


その間に何度か電話もあった。
「先輩んとこ浮竹十四郎が来てるんやて?何で?なんでそんなボロいホールに? 何かのコネ?」
「リサちゃん。」
「ま、ええわ。その歌姫、絶対キープしといて!!」
「え〜」
「え〜、やないの!!絶対やで」
「先輩。真面目な話し、また海外出て来いへんの? 先輩についてステマネ勉強したの遠い昔のように思えるわ。 いつまでそこでくすぶってんの?」
「くすぶってないよ」
「…まあええわ。歌姫のことよろしくな!」
いつも慌ただしく電話は切れた。



町の小学校の合唱コンクールが行われていたその日。
午後の部も終わって京楽が片づけをしていると、長身の男が姿を見せた。
「あれ?大丈夫なの?」
マスク姿の浮竹だった。こくんこくんと頷く。
『良いステージだった』
メモ帳に書き付けている。
「見てたの。そうかい」
またこくんこくんと頷く。
「…まさかとは思うが、声が出ないの?」
トーンを落とした京楽に、浮竹は今度は笑顔で首を振って、
『声を出すなと言われている』
と書いて見せた。
『歌うより話すほうがのどに悪い』
「ふうん。そうなの」
『よく知らない 海燕がいつもそう言う』
「はは。海燕君も大変だ」
『海燕にも見せたかった』
「ん?今日の?」
浮竹はまた頷き、
『ここのピアノの音は良い』
と書いた。
「それはどうも。そういえば海燕君は?」
と京楽はたずねた。
『用事』
と書いた後浮竹はすぐに新しいページをめくり、
『海燕も歌手』
と書いた。
「へー。そうなの」
『の卵』
「はは。あれ、でも海燕君は大きい声でよく君を怒鳴っているよねえ」
『海燕はのどが強い』
「そう。…うらやましいかい?」
京楽はなんとなくそう感じて尋ねてみたが、 浮竹はゆっくりと微笑んだだけだった。





互いに見知らぬ人間の看病は気を使う。

昼間顔を見せた浮竹は、熱が下がったというわけではなかったらしい。
様態が落ち着いてきた浮竹に海燕は、安静にしているように、 と強く言いつけ、方々の挨拶や買い物などに出かけたのだ。
しかしそれを守る歌姫ではなかったという訳だ。

京楽は海燕に、「夜、再度どうしても出かけなければならない」 と、その歌姫の看病を頼まれた。
というより監視を主に言い付かった。
昼出歩いて疲れたのか、浮竹はほとんどが寝ていた。
なので京楽は、そばで本を読んでいればよかった。
食事はホテルのリゾットなどを部屋まで頼み、 加湿器の水が無くなれば換える、それくらいのことだった。

夜も更けて、浮竹はずっと静かに寝ているので、 京楽は晩酌のワインを自ら選びに出かけ、味見をしながら手に提げて部屋に戻ってきた。
が、ドアを開けると少し様子が違った。
浮竹は何かうなされていた。
眉根を寄せた苦しそうな表情で、額には汗が浮かんでいた。
しまったかな、と酒気を帯びた京楽は思った。
浮竹の食いしばった歯の間から、締め付けられるようなうめき声が漏れる。
起こした方が良いだろうか。
「おい先生さん、どうした?」
なんどか軽く揺さぶると、浮竹はばっと声にならない声で飛び起きた。
それからすぐに頭痛を覚えたか額に手をやってうめきながら前に倒れてきたため、 京楽に抱きとめられる形になった。
肩を抱いた京楽はその細さに驚いた。
音楽家はすべからく体力勝負であるからだ。
「うなされていたけど。大丈夫?」
「…」
「先生?」
浮竹がゆっくり二度頷く。
京楽が抱きとめた身体を離そうとすると、
「もう少し…こうしていてくれ」
と浮竹がごく小さな声で言った。
京楽は言われるままにしていた。
なめらかな白い髪が、細かに震えている。
肩が上下して胸元が開かれた夜着は鎖骨が美しい。
っと。何を考えているんだ僕は…
「…酒臭い」
浮竹が言った。
「あ。悪いね…苦手かい?」
「いや。好きだ。が、公演前は海燕に禁止されている」
「また禁止?厳しいね。咽のため?」
「いや、酔ってその辺で寝てしまうからだ」
「それは困るね」
「それから、先生はやめてくれ」
「それじゃあなんと呼ぼう」
「浮竹でいい…もう平気だ」
浮竹が自分から身をはがした。
京楽は首を倒し柔らかくたずねる仕草で、
「悪い夢でも見たのかい?」
と聞いてみた。
浮竹は額にかかる髪をかけ上げて
「ああ」
と答える。
「ステージで声が出なくなる夢だ」
「それは怖いね」
「とても怖いよ」
長い髪がまた落ちてきてしまって、浮竹の顔は見えない。
「少しなにか話をしてくれ。お前の声は落ちつく」
「そう…ねえ。じゃあ浮竹先生はこれで」
と言って京楽はナイトテーブルの上にあった昼間のメモ帳とペンを渡した。
すると浮竹がはじめに書いた。
『海外で働いていたと聞いたが』
「そんな頃もあったねえ」
『どんな仕事?』
「まあ、楽団付きのステージマネージャーとしてあちこち…修行みたいなものさ」
『今はここに?』
「そう。結局ここに戻ってきた。僕にはここくらいが合っているのさ。 自分の目がすべてに行き届く規模も気に入っている」
『完璧主義』
「おっ。七緒ちゃんに聞かせたいね」
『ここはお前の持ち物?』
「そうだよ。両親が残していったものだけどね」
『資産家だな』
「君が言うかなあ」
『俺は貧乏だった』
「ふうん」
『趣味がいい。丁寧に管理されてある』
「それはどうも」
『あのピアノも』
「ああ。子どものにはあまり評判が良くないんだよ。 家のや教室のと違う音がするって」
『そういうものに触れるのもいい機会だ』
浮竹がそっと息をついたので、京楽は浮竹をベッドに倒してやった。
浮竹はされるままに横になり、それから少し横に寝返りを打った。
京楽は、浮竹の視線が外れたので自分もカーテンのかかった窓のほうを見ながら、
「あのピアノにまつわる…忘れられない不思議な話があるんだよ…」
と言った。
何故そんな話をしようと思ったのか自分でも分からない。
相手がもう眠ってしまうだろうと思ったからか。
声を聞かせていればいいと思ったからか。


「あのピアノの置いてあるホールにはね、 一度だけ天使が現れたんだよ」


京楽はたった一度だけ訪れた、あの白い天使のことを話した。
誰にも話したことはなかった。
本当は誰にも話すつもりもなかった。
とつとつ夢のようにその美しい出来事を話した。

そして自分がその天使に深い欲望を抱いたのを思い出したところで、 重く口をつぐんだ。

と、キュッキュッと浮竹のペンが動く音がした。
『それが初恋か?』
京楽は聞き手がいたことを思い出し、慌てた。
「初恋…え?」
『初恋』
「え?ええ?恋の話に聞こえた?」
浮竹は頷く。
そういう淡いものではない。京楽は頭をかいた。
「いや…どちらかと言えばトラウマというか… それからずいぶんいろんな女性と付き合ったけれど、どれもだめでね。 長続きがしない。いつも最後には、あの天使を思い出してしまう。 それで…僕はね、自分を幼児性愛者なのだと長い間悩んだ」

浮竹が、
「ナイーブな奴だ」
と口に出して言った。









02152010

京楽のにぶちん。





戻る