トイトイトイ       1.来日

 

『天使の歌声―初来日公演!今あなたの心に天使が舞い降りる』

「ふうん…」
京楽は丸めたポスターのくせを伸ばしながら、ホールの正面に貼った。
よくあるキャッチコピーだ、と呟く。
百年に一度の歌声、奇跡の歌声、天使の歌声…
ポスターに映された「天使」は演出効果でわざと逆光に撮ってあり、 顔がほんの少ししか分からない。
しかし、ただ天使の歌声と賞賛される人々と一つ違うことは、 この天使は男性である、ということだった。
天使に性別はないというから、男性であっても天使と呼べなくはない。
京楽はポスターの角度の具合を確認した。
しかし何故また、こんな田舎の、小さな名もない音楽ホールに来るのだろうか。
世界的に名を馳せている、とまではゆかないにしても、京楽もこのオペラ歌手の 名は耳にしている。
身体が弱いのか、急病による公演キャンセルが少なからずあり、 この歌手の歌声を聴くことが出来るのは稀、などの噂から別の意味で「奇跡の歌声」 と呼ばれることもあると、事務兼受付嬢をたのむ伊勢七緒は話していた。
今回のこの町での公演が、この歌手本人のたっての希望なのだとも。



コツン、コツン、コツン。
黒髪をきっちりと上へ束ねた女性が持ち場へ歩いて行く。
ホワイエは落ち着いた緑色の絨毯張りで足音は消えるが、 そこに到着するまでの間の床は、硬質な音がよく響く。
革靴で来れば少しは自分が良い音楽を楽しみに来た、という上品な気分を盛り上げてくれる。

その乳白色の廊下を、京楽春水は裸足に雪駄でずるずると歩く。
受付の七緒がちらとそれを見咎める。
が、何も言わず一つため息をつくと、また背を正して去っていった。

京楽は小さな田舎町にある小さな音楽ホールの館長をしている。
それと他にこのホール近くに建つホテルのオーナーを兼ねていた。
それはこのホールにごく稀に来る遠方からの出演者と観客のために建てられたホテルであり、 ともに今は亡き京楽の両親が愛した建物であった。
外から人を雇ってもいいのだが、残された兄弟の中で 他に何をすることもなかった京楽が、なんとなくこの二つを守る形で受け継いだ。



今日はこのホールに演目が一つ入っている。
地元の子どもピアノ教室の発表会だった。
たいていがそんな行事である。

「今日はどうぞよろしくお願いいたします」
ピアノ教室の教師があいさつに来ていた。


ポローン。
京楽はホールに入ってピアノの響きを診た。
今日は雨が降りそうだ。




夕暮れ、頬を上気させて、それぞれにピンクや黄色といった色どりの 花束を持った子どもたちが帰って行く。
人が絶えてがらんとなったホールに入り、京楽はピアノの椅子に座った。

「おつかれさん」
京楽は年代ものらしきピアノにそっとそう言って、それから鍵盤や周りについた小さな手の跡などを ねぎらうように丁寧に拭いた。

「お疲れ様でした」
そこへ、伊勢七緒が入って来た。
他のスタッフはあらかた帰宅したようだ。
「お疲れ様、七緒ちゃん。どうもありがとう」
「良い発表会でしたね」
「だねえ。」
京楽はふっと息をつく。
町の小さな発表会。何にも変わらず京楽は丁寧な仕事をする。
口には出さぬが、京楽はこの仕事が好きなのだ。
七緒はそんな京楽をまたこちらも口には出さぬが少し、尊敬している。
「ところで七緒ちゃん、傘持ってきた?」
「はい。ご心配には及びません」
「ちぇ。相合傘(あいあいがさ)して帰ろうと思ったのに〜」

と、窓口から誰かが声を掛けてきた。
男は、雨の雫(しずく)が球(たま)になってポンポンと良く弾き落とされる、高級そうな傘を斜めに 傾けて、窓を叩いた。
ピアノの音(ね)が言う通り、外は雨が降り出していた。
「はい、はい。ちょっと待ってね〜」
京楽はのんびりに答えてそちらへ向かう。

「はい。なんでしょう?」
「あのう…」
「はい」
「先生は着いていますでしょうか?」
「はい?なに。先生?帰ったよ。ピアノの?」
「違います。歌手の」
「ええと、まだ?かな」
「あああ。やっぱりそうですか」
「たぶん」
男は頭を抱えた。
「なになに。取りあえず中に入る?」



男は何度も携帯を掛けていたが諦めて、二人に向き直った。
「あの、お世話になります。私は、今度ここで公演させていただく 浮竹十四郎の付き人で、海燕と言います」
「ああ!」
「はい、すみません。先生は駅に着くなり散歩しながら歩くから ここで落ち合おう、と言って止めるのも聞かずに…くそっあんのボケ!」
最後の方は聞かなかったことにして、京楽は
「道知ってるの?その先生は」
と聞いた。
「ええ、なんだかここで生まれただとか、ここで育ったとかそういうことを 言ってはいましたが…でも」
京楽はポスターを見た。
「極度の方向音痴なんです!」
男が七緒に噛み付く。
「まあ」
七緒がなだめているのを遠くで聞いて、京楽は小さく呟いた。

「ああ、そうだ。天使なら見たことがある…」









01182010
専門知識ゼロで書きます。いろいろ間違ってても笑ってもゆるして。





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