保健室の人 7 「いい男だったでしょ」 松本乱菊は赤い目を腫らしたままで言った。 「うん。すごく…」 「…あら、本気だったのね」 乱菊は自分の目元を、伸ばした爪のきれいな指でぴん、とぬぐった。 「そっちこそ…首尾はどうだったの」 「…取り逃がしたわ」 「そう」 「悪い男なのよ」 ぽつんと言った。 外には木枯らしが吹いていた。 もうすっかり冬なのだ。 校内は冬休みだクリスマスだ、その前に期末試験だ、と騒がしかった。 そしてここには、浮竹と入れ替わりに松本乱菊が戻ってきていた。 「乱菊チャン、知ってたの?」 「ええ、まあ。先輩なのよ、あの人。飄々としていてとっても病人には見えないから ホントなんていうか」 「うん…」 二人が黙ると、暖房の音だけが室内に響く。 「京楽はね、今ね、ダメ期なの」 「ダメ期?」 「そ。何もかも上手くいかない、そういう時期って あるのよ。長い人生の中では」 「でもね、きっとあんたはいい男になるわ。年をとればきっと」 「励ましてるの?ありがと」 「いいえどういたしまして」 「苦しくないか」 と浮竹は言った。 「苦しいよ」 京楽は呟く。 しかし本気になったらもっと苦しい。 こんなのは初めてだった。 息が苦しくて、吸うことに必死になって、だからこそ息が出来る。 そしてなによりの発見は、苦しいが、苦しむ価値がある、と思えること。 それは京楽に生きていることを実感させてくれた。 生きている、という気がした。 「それ、恋」 乱菊が言った。 「あんた意外に、うぶいわ」 「そう」 京楽は笑った。 「だけどねえ乱菊ちゃん、今まで僕はわりと世の中が疎ましい方だったんだけど、 浮竹を好きになることで、世界も愛せることを知ったよ。 たとえば恋に必死になって泣く乱菊ちゃんのことも愛しいよ」 乱菊はちょっと目を見開いて京楽を見た。 それからゆっくり微笑んだ。 とても綺麗な笑顔だった。 「何も見えなくなる恋は掃いて捨てるほどあるけれど、 世界が見えてくるのは愛に近いわ。 貴重よ。大事にしなさい」 「逃さないように」 と言って京楽に小さな紙片を渡す。 「なに?」 「浮竹先輩の携帯。あんたやっぱりいい男になるわ」 「ありがとう。乱菊ちゃんもいい女だよ」 「知ってるわ」 『ああ、京楽か。学校はどうだ?』 『昨日も聞いた?昨日と今日は違うだろう』 『はは、まあそうだ。元気か?』 『そうか。ああ、悪いちょっと今手が離せなくてな』 『入院中?ああまあそうなんだが。こっちが本業だし』 『ベッドで論文を書いている。終わらない。本当に時間がない』 『松本がなかなか戻らないものだから進まなくてな…うん、うん大丈夫だ』 『大丈夫だ、心配するな。もし倒れてもここは病院だからな』 『…すまん。ああ、分かったすまん、冗談だよ』 『しかし俺は奨学金で出てるし恩義もたくさんあるんだよ、教授には』 『まあそう言うな』 『ん?来るのか。うん。待ってる。え?今、もう着いた?』 『ドアの前?』 病室のドアが開く。 「やあ、京楽おつかれさん」 浮竹がにっこりと笑った。 了 10312009 病院で携帯電話を使ってはいけません。 終わったよ…展開を途中で変えてみたので少し時間がかかりましたが、無事完結。 ありがとうございました。 |