トイトイトイ 6.歌姫 翌朝。 調律師との細かなスケジュールの連絡を取った後、 京楽はホテルのカフェテリアにふらりと入った。 と、窓際に彼の姿が見える。同席の海燕が京楽に気づき、 軽く頭を下げた。こちらもつられてひょいと頭を下げた。 なんとなく流れでテーブル近くまで行くと、 歌姫はまたマスク姿だった。 「なに。またぶり返したの?」 浮竹は京楽を見ると、自分のマスクの前に細長い指でばってんを作った。 「熱も下がって回復したんですが、少し咽喉に炎症が残っていて」 ふう、と海燕はため息交じりに言った。 「本番までにはきっちり直してもらいます!」 「本番て、もう間もないじゃない」 「間もなくてもです!」 「しゃべれないってストレス溜まるでしょう?」 浮竹がうんうんと頷く。 「小さい声でもだめなの?」 「駄目です。炎症がある時には小さな囁き声というのが、実は一番咽喉に負担をかけ るんです」 浮竹が目のふちを少し赤らめた。 「あ…」 呟いた京楽に海燕が首をかしげる。 ごめんねえ…。 「ゴホン。そうだ海燕君、今日ピアノの調律師と連絡を取ったんだけどさ…」 「はい、ええ」 話題を変えて京楽が海燕と話していると、浮竹が軽く咳き込んだ。 コンコン。 海燕がすぐさま顔を向ける。 浮竹は軽く手を上げて大丈夫だと示し、 『トイレ』 とメモ書きを見せた。 海燕は頷いて、手帳に目を戻した。 厳しいけれど有能な付き人だな、と京楽は思う。 歌手の卵と言っていたから、 おそらく浮竹に付いて勉強中というところだろう。 ふとホテルの環境音楽が静かにフェイドアウトし、変わりに軽やかな 音楽が鳴った。京楽を呼ぶ合図だ。 ホテル内で所在の分からぬオーナーを呼ぶ際に、 客に知れずに京楽だけに分かるよう選んだメロディである。 「七緒ちゃんかな。ちょっと失礼」 海燕に断ると席を立った。 カフェを出たすぐの廊下に白いものが見えた。 浮竹だ。様子がおかしい。 壁に手をつき、寄りかかるようにして激しく咳き込んでいた。 そしてそのままずるずるとその場にうずくまる。 「浮竹!」 京楽が駆け寄った。 「浮竹、苦しいの。彼を、海燕君を呼ぶかい?」 浮竹は京楽の腕を掴み首を振った。 「でも、彼の方が君のことよく分かっている」 浮竹は咳の合間から 「いい」 と答えた。 「俺の世話ばかり…」 「浮竹、話さないでいい。ん?」 浮竹が何事か訴える。 「吐きたいの?僕の休憩室が一番近い、そこへ」 京楽は浮竹の肩の下から自分の体を入れて支え、 引きずるようにして抱えて歩いた。 洗面もベッドの備えもあるそこへ入ると、浮竹はまた一段激しく咳き込んだ。 密着した体から浮竹の内側から突き上げる咳の激しさが伝わる。 呼吸が出来ているのだろうかと心配になる。 「浮竹、そこ」 浮竹は向きを変えて洗面へ向かうと、伏して苦しそうに 咳を続けていて、そして少し戻した。 京楽は背を支えるようにしてさする。 服の衿をくつろがせ、長い髪を後ろにまとめてやって、しばらくそうしていた。 程なく咳は止んだ。 「まだ吐きそう?」 浮竹は荒い呼吸をしながらも首を振った。 「気分が悪いかい?」 それにも首を振る。 「…咳のしすぎで嘔吐中枢がやられたかな」 浮竹は頷く。 すぐに答える浮竹の反応に、よくあることなのかも知れない と京楽は思った。 「よこになるかい?」 「少し…」 こちらが話すからつられて浮竹も声を出してしまう。 京楽は口の前に人差し指を持ってきて立てると、少し微笑んだ。 結局海燕を呼ぶことになった。 加湿器や薬や吸入器など、全て分かっている者が必要だった。 海燕は迅速に、必要なものを必要なだけ用意した。 それから浮竹は少し眠った。 今は何か蒸気を吸い込む機械のようなもの に、口を当てて張り付いていた。 浮竹がその機械をゆび指して、海燕に目で『もういい?』 と聞いている。 海燕は『駄目』とばかりに首を振る。 原因はストレスだと海燕は言った。 ここで、「何が『ナイーブな奴だ』だ」とはとても言えなかった。 そして海燕も 「しかし俺は、先生は精神的にとても強い方(かた)だと思っています」 と言った。真率な声であった。 音楽家は常に非常に大きなストレスにさらされている。 過密なスケジュールや長距離の移動、 公演の重圧。身を削るような芸術への渇望と鍛錬。数え上げればきりがない。 それゆえ成功者は皆そろって遊ぶのもうまい。 遊ぶとなれば羽目をはずして遊ぶ。豪遊することもあれば はた迷惑な悪戯を仕掛けるのが好きな者もある。 とにかくそうしてうまくストレスを逃す。 よい仕事をする者は上手く遊べもするものだ。 京楽も幾重にも目にしてきた。 しかし浮竹はそのほとんどを療養と体調管理に費やす。 大酒も飲まなければスキャンダラスな事件もなく、 そのため音楽界では 誠実を通り越してほとんど妖精みたいなイメージの存在になっている。 「それでも先生はいつも穏やかでたいてい楽しそうにしていて。 ともすれば俺を気遣ったりさえするんです」 「ああ、浮竹はねえ」 京楽は海燕に向けて言った。 「自分の世話ばかりさせられない、と言っていたよ」 「そんな、付き人ですから俺は」 「いつまでも自分の側においては置けないって。 …つまり君を独り立ちさせたいと考えているんだよ」 「先生…」 海燕は少し感動したような眼差しで浮竹を見つめた。 浮竹は今の話を聞いていたのか、うんうんと頷いて、 それから『コレもういい?』とジェスチャーした。 海燕はすぐさま『駄目』と制した。 続 02262010 海燕がなんかインテリくさい。あ、七緒ちゃん忘れたきっと怒ってるよ。 |