酔美人 (すいびじん) 梅雨の入りもまもなく、京楽は雨乾堂を訪ねていた。 浮竹が、花菖蒲が見ごろだから見に来いと言うのだ。 雨乾堂のほとりには、なるほどみずみずしい白や薄紫色の花が群生していた。 「綺麗だろう」 朗らかに浮竹が言った。 「綺麗だよ。だけど君、外に出ていいのかい」 「寝てばかりではつまらん」 「部屋からも見えるだろうに」 「近くで見たい」 「良くなってからゆっくり見ればいいよ」 「時期はいっときだ」 「毎年僕を呼んで見ているじゃない」 「ああ、今年も見るんだ」 「…。」 京楽は押し問答を諦めた。 「持って来てるんだろう?」 と、浮竹がほころんだ顔で言った。 「はいはい」 「早く」 「じゃあ、その辺にでも座って落ち着こう」 浮竹は満足げに従った。 京楽は浮竹に杯を持たせ、酒を注いだ。 「ふふ」 「楽しいかい?」 「ああとても」 「そりゃあよかったよ」 無邪気なことである。 「京楽うー。花菖蒲と杜若(かきつばた)と、あやめの区別は分かるかーい?」 「ああ、似ているねえ」 「そうだろう。分からないだろうー」 「分かるさ。だけども君、ちょっと酔っ払ってるね」 「本当は分からないんだろうー。だからそういうことを言うんだろうー」 「分かるって。あやめは花びらに網目の模様がある。それに乾地に咲くね。 杜若は水の中に咲く。花菖蒲はその中間だ」 「…ふん。そうか」 「知らなかったかい?」 「そんなことはない。しかしお前は詳しすぎだ」 「花に詳しいと女の子にモテるからね」 「ああそうかい」 浮竹はもう一度「ふん」と言って立ち上がった。 「どこへ行くんだい?」 浮竹は水べりをふらふらとした足どりで歩いていった。 しまったな。 呑ませすぎたかな。 京楽は、何よりも隊長を愛する十三番隊の隊員達から非難を受ける自分を想像した。 「京楽春水、きみきみ、この白いのは”浮寝鳥”(うきねどり)と言うのだ。 なんだか他人とは思えない名前だな。しかしこっちは僕と違って丈夫だ。栽培に適す。」 浮竹が上機嫌に一人でしゃべっている。 「白い花弁が深くおおらかに垂れ、気品があると評判だ」 彼に似て、なるほどおだやかな安らぎのある花である。 「花菖蒲には種類がたくさんあってな、白なら初霜(はつしも)、白妙(しろたえ)、薄藤色の深窓佳人(しんそうかじん)、 紫色の誰が袖(たがそで)…面白い名前がたくさんついている」 京楽は、花の名札を一つ一つ覗き込みながら、いい加減に酔ってふわりふわりと水辺を歩く浮竹を見ていた。 白や薄紫色の花菖蒲が覆う水辺を歩く浮竹は、綺麗だった。 花菖蒲の、沼地からすっと真っ直ぐ立ち上がった茎と剣葉、 一茎に一花の様は美しく潔い。 自分には似合わないその清浄な花が、浮竹にはよく似合うと思った。 本人には言えない。 浮竹が綺麗だと、何万回も思っているが言えない。 京楽は長い間抱えている思いを未だ告げられずにいた。 浮かれていた浮竹は唐突に立ち止まって、それからじっと花を見て動かなくなった。 「浮竹」 京楽が声をかけた。 京楽が側まで来ても浮竹はしばらく黙っていたが、ふと 「なあ京楽。杜若は美しすぎると思う」 「なんだい急に」 「美しすぎるんだ」 京楽は花菖蒲に似た、少し豪奢な杜若の紫紺の花を思い浮かべた。 「…確かに花の色も鮮やかだし、形も綺麗だね。杜若も美しいね」 浮竹は話を続けず、また黙ってしまった。 もう戻らせた方がいいか。 京楽が帰宅を促そうとすると、 「杜若は、”燕子花”とも書く…」 押し黙って花を見ていた浮竹がまた口を開いた。 「つばめの字を使う。花の形がつばめを留まらせているようだとも、飛ぶ姿のようだとも言われている…」 その声には彼に似合わない沈鬱な空気があった。 浮竹は今、確かに一人の男のことを考えている。 「浮竹」 「…」 「浮竹、もう戻ろう」 「僕が叱られてしまう」 「…」 「浮竹?」 「叱られてしまえ」 そう聞こえた。 「知っているくせに」 後は聞こえなかった。 浮竹は水にずぶずぶと羽織袴のまま入っていってしまった。 「浮竹!濡れてしまう」 京楽は浮竹を後ろから抱きとめると、乾いた足場のある場所まで引き戻した。 「いったいどうしたっていうんだい!?」 「濡れたな」 「濡れたよ!君は病身だろう!」 「お前が、さ」 「?」 「自暴自棄になるな」 「それは君じゃないのかい?」 「お前が、だよ」 言っている意味が分からない。 「君、熱があるね」 この様子だとずいぶんと高い。 まずいことになった。 「隊長!!!」 雨乾堂にひときわ大きな怒号が響いた。 「何やってんすか!」 「どこにも姿が見えないと思ったらこれすか!!二人でのんきに花見すか!? ていうか水浴びすか!?」 「京楽隊長!」 「はい」 「何で止めないんですか!」 「すみません」 「うちの隊長は何でこんなに酔っ払ってるんすか!!」 「すみません…」 快活で明朗で怒ると怖い副官が、自分の隊長と、あまつさえ他の隊の隊長を大声で叱り飛ばしながら、 てきぱきとその隊長の面倒を見ている。 泥に濡れた足を洗い、さっぱりと着替えさせられた浮竹はしおれ花になって 布団へ押し込められた。 先日の宴席の際、迂闊にも雨にうたれて帰り発熱した浮竹を、真っ先に 叱り飛ばしたのもこの副官である。 「外出禁止!!」 「禁酒!!」 それが浮竹に言い渡された勅令であった。 つまりは巻き込んで共犯にしたな。 京楽は苦笑しながらまだ語気荒いこの副官を見ていた。 「怖いねえ」 「責任とって今晩はうちの隊長を部屋から出ないように見張っていて下さい」 海燕は京楽に向かって言った。 「飯は出します」 「悪いねえ」 「いいえ。他人と思っていませんから」 海燕はそう言って出て行った。 「お前さんとこの副官は男前だねえ」 「…ああ、そうだろう。だけど怒ると怖いんだ」 「はは、君を思っているんだよ。今日は泊まっていけってさ」 「そうか」 「うれしいかい」 「…」 「おや。…それに気のつく良い男だ」 「お前とは大違いだ…妬けるだろ」 浮竹はもごもごとそう言って、布団を被ってしまった。 床の間の花器には花菖蒲が一花、涼やかに挿してあった。 了 06252009 まだ気持ちを伝え合ってない二人。察さない京楽にぐるぐるする浮竹。おっさんの恋愛! 「酔美人」も花の名です。 |