蕎麦湯 (そばゆ) 正月も7日を過ぎて、穏やかに晴れているおかげで冬ただ中にしては穏和ないつもの道を 京楽は歩いていた。 病気慣れしていて年中食べているというのに、彼は今年もきちんと七草揃えて粥を 食べるのだろうと思いながら、京楽は雨乾堂に勝手に入る。 だしの香りが漂った。 「やあ」 「うん」 「あれ」 「蕎麦湯だ」 浮竹は頷いて手にしたほんのりと湯気の上がる蕎麦猪口を 啜った。 「お前も飲むか?」 「ん」 蕎麦湯とは蕎麦を食べた最終に、つゆにゆで湯を注いで 飲んで締めとするから美味いのであって、これだけを出されても如何なものか、 とそう思案する京楽は藍色の鮮やかな蕎麦猪口を持たされた。 別に取ってあった湯差しからとろりとほの白い湯が注がれる。 その手首がまた少し痩せていた。 「ありがとう。なんでまた。例年今日は七草揃いじゃない。それともこれは昼食かな」 「ああ、年越し蕎麦を食い損ねた。そこの山葵(わさび)も入れると良い」 「きみは実家に帰らなかったかい」 「そのつもりでいたが晦日の晩にまた寝付いてな… それでようやく床上げして食い損ねた蕎麦を出してもらったというわけだ。 美味かった」 「ずっとここに?」 「ずっとここだ」 「それは気の毒に」 今年は浮竹が帰省するというので自分も珍しく実家に帰ったのだ。 「これはしまったな」 「何のことだ」 「うん。僕は正月をきちんと過ごしてしまった」 「親御さんが喜ばれただろう。 何しろお前はなんのかんのと理由をつけていつも帰らずにいるから、 しばらくぶりの帰郷じゃないか?」 「そうでもないさ」 「親御さんは達者だったか?」 「それはもう存分に」 「良かったな」 「母上様にもお変わりなく、ご健在であらせられるようでなにより…」 と京楽が取り澄まして挨拶すると、母は自分の顔を見るなり袖を拭ってよよと泣き、 「ああ、会う度にお髭が深くなられて…」 と言った。加えてさらに下を向き、 「ますますおっさんに…」 と呟いた。 「あのくせ毛のお可愛らしい春水さんはどこへ行ってしまったのかしら」 と言って背伸びして下から手を伸ばして来てチョイチョイと自分を屈ませて、 頭をぽんぽんと叩いた。 「ご無事で。お帰りなさい」 それから幾日かは父親と兄たち、親戚と挨拶をして、 堅苦しく賑々しい新年を久しぶりに味わい、それもまあ 悪くはなかった。 生活や仕事ぶりなど重ねて尋ねてくるのにも適当に答えながら上等の酒を楽しんだ。 そして、 「お元気そうで安心しましたよ」 とゆったりと微笑んだ母親にまた見送られて実家を後にした。 とそんな風に過ごしてしまった。 京楽は蕎麦湯を有り難くいただくと、 少し面やつれした浮竹の側に寝転び、鷹揚(おうよう)に杯を差し出した。 それからぽつぽつと話す程度でずっと飲んでばかりいるとすぐに日が暮れた。 さっきのは昼食だったのか夕食だったのか半端な時間に 食事を摂っていたものだと思いながら、部屋の隅にまだ重ねてあった布団を伸ばして転がると、 また飲み始めて浮竹を誘った。 応じて寝転ぶ浮竹の着物を巻いて抱くと、不自由そうに片手でまた杯を差す。 「京楽は何をしているんだ?」 「うん。君の正月を取り戻している」 「酒を飲んでいるだけじゃないか」 「正月なんてそんなものだろう」 浮竹は沈黙した。 そのうち、うとうとと眠気が差してきたので、 着替えようとすると 「そのまんまでいいじゃない」 と返ってくる。 「しかし」 「正月なんだから」 京楽は今度は浮竹の頭を自分の顎の下に抱(かか)えるようにして抱いた。 「京楽、なんだ」 「君の寂しさを取り戻している」 夜半、月が昇って小さな窓からしのび手のひらの杯に映る。 「今回だけじゃない。 きっと君は僕の知らない間に多分の孤独を過ごしているんだろう。だから 僕はそれを取り戻してやりたいというわけだ。ごめん」 「特別にそんなことはないぞ」 「特別じゃないほどに君はそれに慣れている」 京楽は浮竹を自分の着物に抱きこんだ。 「海燕が、いたぞ。世話をしてくれた」 「うん。まあ」 「…。こんな暖かさに巻かれていると本当に自分は 寂しかったような気がしてくる」 「…」 「知らない方がいいな」 「おや、らしくないね。まだ万全じゃないんだね。よしよし」 「くそ」 「こらこら」 「蕎麦湯は滋養になるそうだ」 「そう言うね」 「だが根拠はないそうだ」 「ん?」 「おまえのこれも同じだな」 「同じ?気休めとでも言うかい?」 「いいんだ」 「気が休まる」 言うと浮竹は立ち上がり、 盆を持った。 「きみも飲むかい?」 「確か粥があるはずだ」 「今から?」 「腹が減った」 どうやら七草粥の用意もあるらしい。 「お。気が利くなあ」 と奥で浮竹のはずむ声がする。 了 0331-0419.2011 |